2007年06月20日
朝練は何のため?
いつも朝練に行こうとバイクに乗って走り出す瞬間に、
「あれ?シートベルトは?」と思ってしまいます。
車ならシートに座ってシートベルトを締めて走り出しますが
バイクの場合は全身むき出しで、
どこもマシンに固定されている所がない。
当たり前のことなのですが、どうもなかなか慣れません。
このバイクの朝練習、バイクの免許を取りにいくためなら
いったい何がどれくらいできるようになればいいのでしょうか。
今日は@BOSS教官から
私にとって大切な話を聞いたので書き留めておきたいと思います。
*************(以下、@BOSS教官の話を抜粋)
大型バイクの免許を取ろうとすれば、
以前ほどの高いハードル、恐い試験官でなくなり
自動車学校でも比較的"安易"に取れるようになっている。
だから、あんた(私)もスラロームもできるようになったし
ドカを買って、学校に行って免許を取れば
すぐにDUCATI乗りになって公道を走ることは・・・できる。
でも今、そういう人がいざ公道で走った時にうまく乗れなくて、
乗れないままだから怖い目にあったり転んだり骨折したりで、
あっという間に乗るのをやめてしまっているそうだ。
最悪の場合、事故で死んでしまうということも
残念ながら相変わらず起きているが、
バイク乗りの絶対人口自体が極端に少なくなったので
『バリバリ伝説』隆盛の頃のように
バッタバッタと亡くなっている感はないけれど・・・。
昔は「試験官」によるテストに合格しない限り
何年かかっても受からない人は受からなかった。
今は違う。
順を追ってカリキュラムを終了すれば免許がもらえる。
バイクは車と違う。
生身で大型トラックと同じ道を走るのだから
どんなプロテクターをつけていようと
一歩間違えばトラックの下敷きにもなる、死と隣り合わせの乗り物だ。
公道を走るということは、
どんな場面にも対応できるようにならなければならないということだ。
「できない」「乗りこなせない」「修得していない」は
イコール「死ぬかもしれない」ということを
知らないままで乗っていてはいけない。
今、Uターンや急制動がうまくいかないとき
注意されたことに対して「理屈」で答えているが
公道という現場では屁理屈は通用しない。
現場でとっさの状況のとき、必要なのは口で答える理屈ではない。
対向車にも、ぬれた路面にも、言い訳は通用しない。
「できないまま乗る」ということは
「運が悪ければ死ぬ」ということだ。
現場で起こる一瞬の判断を、
頭で考えて対応するようでは間に合わないかもしれない。
体が正しく対応するように脳に動きを焼き付けなくては。
今はできないことを習得して
徹底的に脳にたたきこむために朝練をしているのだから
できない理由なんかしゃべっている場面ではないし、
今後もそんなことを言う必要はない。
どこが悪くてなぜできないかをセルフチェックできるならいい。
素質がある人は、自分で練習できるし
他人の走りや乗り方を見て、自分で上手くなっていく。
でもあんた(私)は自分で原因がわからないから他者から習っている。
習っている時はできない言い訳を考える必要はない。
「ああ、それでいい、今出来ている」と言われるまで
できるようになるまで言われたことを直す努力を重ねる。
そして、できるようになったら、それを脳裏に焼き付ける。
そのための朝練だ。
*************(以上、@BOSS教官の話を抜粋)
どんどん「エースをねらえ」化してきましたが
今回は茶化す話ではないようなので
できるだけ内容に忠実に書いたつもりです。
そこまで堅く考えなくたって・・・・という方もいらっしゃると思いますが
「かまたの朝練」は
バイクというウキウキするような楽しい乗り物で
逆に「死んでしまわないため」であり、
「楽しいままバイクに乗り続けるため」にやってるぞと
この辺で一応きちんと書いておかないと
いったいいつまで練習をつづけるんだ?
本当に免許は取りにいくのか?
という疑問をもたれる方も増えてくると思いますので・・・。(^_^;)
投稿者:かまた posted at : 17:23 | コメント (4)