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2011年04月11日
再び牡鹿半島、そして十三浜へ
金曜日、仕事を終えて物資の仕分け作業を開始したのは夜7時30分。
雨が降っていたので、会社の駐車場にテントを立てて
その下にコンテナボックスを並べて仕分けをします。
全国のありんこさんから届く箱の中身は
どれもわかりやすく物資を分けてくださるおかげで
前回よりもかなり時間の短縮はできましたが
すべての仕分け作業が終わったのは夜11時30分。
待ちくたびれたウトロンが、ドアの内側で
若干ふてくされ気味で寝ています。(笑)
今回は、大工作業も、運搬作業も、掃除も、炊き出し料理も、
スポーツマッサージも、どれをとってもプロ並みの
コタン親方と3人で行く予定です。
が、荷物の量が多くて、バスだけでは
物資を少し置いていかなくてはならないかも・・・
とりあえず大きなコンテナは「それいけウトロ号」に、
細々した物は「それいけミニウトロ号」に載み込んで
本日の作業は終了。おつかれさまでした。
【土曜日】
雨が少し残る肌寒い土曜日の朝、
ミワ家が新潟経由で同行してくれることになり、
それいけミニウトロ号のコンテナはミワコング号に積み替えて
トランポ2台で宮城県の牡鹿半島へ向かいました。
先日深夜の大きな余震で、道は前回より悪くなっているようです。
前回には無かったのに、あちこちで道が陥没して
マンホールが飛び出しているのを目にしました。
牡鹿半島へ入ると、
新潟ナンバーのNTT工事車両が何台も並んで、
先週に引き続き電線工事を行っていました。
でも確か、先週工事をしていたのもこの辺りだったような・・・
最近ようやく「めぐろさん」にも電気が通ったと聞きましたが
木曜深夜のマグニチュード7.4の余震によって
またやり直しとなってしまったのでしょうか・・・
この日、「割烹民宿めぐろ」さんには
先週は不在だった社長さんもいらっしゃいました。
ちょうど函館ナンバーの給水車がやって来ていました。
下着や野菜などの食料も燃料も、私たちが持ってきたような物資は
前日に公的支援でたくさん届いたそうです。
「ここは他に比べたら恵まれていると思うんだ。
だからもっと大変なところに持っていってあげて。
でも、中でコーヒー飲んで行ってね。」
めぐろさんは先週電気が通じたのに、その2日後、
深夜のマグニチュード7.4の大きな余震で
また電気のない生活に戻ってしまいまいました。
それであればランタンを置いていきますね。
「あ、ランタンかあ、こりゃあいいや。」
「この間の余震は、11日の地震より揺れは大きかったね。
みんな逃げろ!って声をかけたから誰も怪我は無かったけど
真っ暗だから、裸足で飛び出した人もいて
裸足は絶対だめだぞ!って後で注意したんだけど、
今度から寝る時枕元にランタンを置いて
持って逃げればいいね。」
「今回の余震で建物にもひびが入っちゃって、
この大広間の柱も、ほら、こことそこを補強したんだ。
でも、もう一度大きいのが来たら
持ちこたえられないかもしんないね。」
そう笑顔で話されます。
「正直ちょっと疲れちゃった。あ、言っちゃった。」
ぺろりと舌を出しておどけて言われますが
きっと「疲れた」「辛い」を言わない約束なのでしょう。
「この間、報道ステーションに出たんだよ。
その時、ドラム缶風呂を焚いていてたから
真っ黒な顔でテレビに出ちゃってねえ。
でもそのテレビを見たって人から、はがきがきたんだよ。
ほら、見せてあげて」
ということは、郵便物は届くようになったということですね。
女将さんが棚から大事そうにはがきを出して見せてくれました。
震災を受けても笑顔で元気に頑張っているめぐろさんと
そこで避難している皆さんの元気な姿に感動して、
こんなことしかできないけれど言葉のエールを送ります、
そんな内容のはがきでした。
「嬉しいよね、復興したら必ず行きますって。
ここは、民宿の安さと割烹の美味しさを売りにしようって
おれが『割烹民宿』とつけたんだよ。
もう一度やりたいねえ。」
復興したら私たちも必ず泊まりに来ます。
次は牡鹿病院へ。
この日はスタッフの方に休みを取らせたということで、
出てこられる方も前回の半分くらいでした。
やはり同じように前日、物資も燃料も十分に届いたので、
ここで手に取られ物は化粧水やハンドクリームが多かったのですが、
一番喜ばれたのは、やはりランタンでした。
ここも電気が通じたのはたった一日だけ、
翌日には余震で再び電気が使えなくなったそうです。
(水道、ガスは相変わらず駄目で、給水車が回っています。)
「どういう支援団体の方なんですか?」
一人の看護師さんに聞かれました。
私たちはオフロードライダーつながりで
支援の物資を集めているんです。
「バイクですか。私もトライアスロンをやっているんです。
宮古島にも行く予定にしてたのに
もう全部駄目になっちゃったなあ・・・」
そんなこと言わないで、
必ずまた、いつかやれる日が来ますよ!
「うん、そうですね、またやれる日来ますよね!」
東北の病院は仙台市を除いては、震災前から
医師不足による医療崩壊が問題となっていて、
医療スタッフの過酷な労働や、入院施設の不足が
深刻化していた所に、震災によりスタッフが減ったことで
病院に残ったスタッフは休めず、
自分も帰る家がないのに働き続け
物資はスタッフ用ではないので回って来ず、
体力と精神力が疲弊してしまうので
無理にでも休ませないといけない状況だとニュースで見ました。
病院のスタッフの方には、スタッフの方を対象とした
体と心を守るための支援が必要になっているのかもしれません。
こうしていると静かで美しい松島の海です。
寄磯小学校に着いたのは夕方5時半。
ちょうど夕食の時間に当たってしまうかなと思いましたが
夕食は5時からで、もう皆さん食べ終えた後でした。
寄磯小学校に来る前に@BOSSと相談をしました。
ここは100人規模の避難所なので、
どれくらいのものが必要とされるか読めない部分があります。
先週のようにここが最終地点なら
すべてをそのまま置いていくこともできるのですが
明日も行く予定があるので、
コンテナボックスを並べることはしないで
ホワイトボードに物資のリストを書いて
必要なものだけ、渡せる数を手渡しすることにしました。
が、実際に責任者の方にお聞きしたら、
やはりここも昨日、大規模な物資の支援があり、
下着も野菜も燃料も、現在特に不足しているものはないそうです。
「漫画はどうですか?
出版社の方が送ってくださった本があるんです。」
「そうですか!子供たちに聞いてみます。」
すぐに、子供たちが校舎の奥から飛び出してきました。
「わー!ジャンプだ!」奪い合いです。^^;
コミック文庫も嬉しそうに、どんどん手にとっていきます。
「絵本はもうないの?」
小さな子供は、大きな絵の絵本も読みたいようです。
この漫画、実はブログにコメントを頂いた
集英社にお勤めの「ussyさん」から送って頂いたものです。
子供向け、女性向け、成人向けでセレクトして頂きました。
(『少年ジャンプ』だけは、部署が違うということで
関係者であるにも関わらず、自費で書店で購入されたそうです。笑)
ussyさん、ありがとうございました。
今頃みんな順番待ちで、漫画を読んで過ごしていることと思います。
漫画はたいへん喜んでいただきましたが、
さて、新潟から持ってきた燃料も食材も下着も、
そういったものは前日届いたばかりということで、
一日の差で、どこでもほとんど必要とされませんでした。
また、牡鹿半島ではリクエストをすると
公的支援機関から届く体制がこの一週間でかなり整ったようです。
このこと自体はとても喜ばしいことなのですが、
私たちとしてちょっと寂しい・・・^^;
明日初めて行くところでも、もしかしたら同じ状況で、
何も必要とされない可能性もあるけれど、それはそれ。
物資支援はこうして少しずつ収束をしていくのだと思います。
この日はテント泊です。
暖かくなったとはいえ東北の4月、
夜はやっぱりかなり冷え込んできます。
避難所の皆さんは暖かく眠れているのでしょうか。
おやすみなさい。
【日曜日】
朝食はめぐろさんで頂いた支援物資のパンです。
2日に1度、50個のパンとお茶が必ず配られるのだそうです。
とても食べられない、けれど捨てられない、ということもあり
「持って行ってもらうとありがたい」ということでしたので
こちらもありがたく頂きました。(-人-)
前日の牡鹿に続いて、この日行く予定にしていたのは、
とれっくかーちゃんから@BOSSに
「一緒に行って欲しい」と連絡があった
北上川河口近くの十三浜の「長観寺」さんというお寺です。
あまり支援物資が届いていないらしい、という話しかわからず
人数も必要なものも把握しているわけではありません。
もしかしたら、もう十分行き渡っている可能性もありますが
物資の支援ボランティアには、
そういうこともありうる覚悟は常に必要です。
とれっくかーちゃんと、たくみさんと合流して十三浜へ。
北上川沿いに走ります。道は悪いけれど、きれいな景色です。
が、河口に近づくにつれて様子が一変してきました。
「え・・・・・・?」 目の前にあるのは原爆ドームではありません。
そこに広がった風景に、皆言葉を失いました。
Googleの航空写真で見ると、この○をつけた場所に
避難所となっている「長観寺」さんがあるのですが、
(クリックすると少し大きくなります。)
写真の奥の高台にある「長観寺」さんを残して
その集落には何一つ残っていません。
ここへ来るための国道などが寸断されていたため、
集落内の道を開ける作業用重機の到着も遅かったためか、
今日で震災からちょうど一ヶ月も経つというのに
これまで行った避難所のどこよりも支援物資が届いておらず
まわりの地域から分けてもらったりしていらっしゃったようです。
それでも最近はいろんな科のお医者さんが毎日派遣されて
回ってきてくれるとのことでした。
(歯医者さんから風邪薬をもらったりということも。)
私達もこの景色の中、お寺のところまで進んで行きました。
「何かちぎれた部分だけでも残っていればいいんだけどねえ・・・」
壊れた家の跡から何かを探そうとしていお母さんがいました。
「でもな~んにもなかったわ。」
両側に灯篭の礎石だけ残った参道入り口に車を停め
物資の入ったコンテナを降ろして並べます。
「本当にいいんですか?すみません、ありがとうございます」
皆さんは控えめに下着や靴下のサイズを確認したり
缶詰やお菓子を手に取ったりされています。
50名くらいの方がこちらに避難をしていらっしゃるということなので
「この物資はそっくりこちらにお渡ししていきますよ。
箱ごとお寺に運びましょうか?」
と、とれっくか~ちゃんに話をしたら、
「うん、最後はそうすればいいんだけど
こうして皆さんが『自分のもの』を選ぶことを楽しむ時間も
大事なことだと思うのね。だからまずはこのままで・・・。」
燃料もあまりないということだったので、
積んできたガソリンや灯油をほとんどここで降ろしました。
皆さんからお送りいただいた携行缶も活躍しています。
「こちらがご住職です。」とご紹介された方にご挨拶しました。
「こんなことまでしていただいて、本当にありがとうございます。
ここは月浜という地域です。長いことここにおりますが
このような事態は、後にも先にもありません・・・」
ご高齢のご住職は、静かな口調でそう話されました。
皆さんで工夫をして作ったらしい物干し場や
プレハブとバスタブを使って昨日できたばかりというお風呂。
少しずつ生活の場は作られつつあるようですが
震災から一ヶ月たつのに、未だこの状況ということが信じられません。
「ここの避難所も最初は100名くらいの方がいたんですが、
親戚を訪ねたり、他の地域に移ったりして
今は50人くらいの方がここに避難されていらっしゃいます。
でも、この周辺では亡くなられた方の数のほうが多いんです。」
ただうなずきながらお聞きするしかできませんでした。
また、ご住職の娘さんに当たる方でしょうか。
「ここはこれでもまだ震災当時よりもよくなったんですよ。
最初の頃は今私たちがいるここにも、ご遺体がたくさんあって、
お寺に入ってくる道も全然なくて、
ようやくここまで車が入って来れるようになったんです。」
「津波は役所の屋根を越えてこっちへ向かって来てね、
私もその波を見て必死で高台に逃げて助かったんです。
本当はあの大きな役所の建物がこの街の避難所だったんです。
まだ新しい建物だったんですよ。
だからそこに逃げた方も大勢いるんですが、
その避難所に逃げた方は、全員が・・・。」
避難所であった市役所の支所。
震災後、これまで毎週末に宮城に来て今日で4回目です。
その間、激甚災害地と言われる地域もずっと目にしてきました。
先回のブログにも書いたように、津波の爪あとにも
少しずつ目と心が慣れてきたはずでした。
けれどここは今まで訪れた場所とは違っていました。
これまで訪れた避難所は、津波の被害にあった沿岸部から
すこし離れた高台や、内陸にあることがほとんどでしたが
ここは一ヶ月前までは、普通に生活してきたそのまま同じ場所でありながら、
津波の一撃で、懐かしい景色が全て失われてしまった被災地でもあり
直後は多くの顔見知りの方々が横たわっていた真っ只中でもあります。
でも、その変わり果てた故郷を見下ろす唯一残った高台のお寺で
今は皆さん、寄り添うように生活をしていらっしゃいます。
「こんなにして頂いていいんですか?」
「申し訳ないですねえ、ありがとうございます。」
そんな言葉を言いながら、本当に申し訳なさそうに
遠慮がちに下着を選ぶお父さん、お母さん達があまりにも優しくて
笑っていないと涙が出そうになります。
でも、私がここで泣いていい理由は一つもありません。
これが戦争の結果なら、私も相手の国を憎むかもしれません。
でも今のこの目の前の惨状は、誰を恨むこともできず
ただただ「いったい、どんな意味があるのですか?」と
天に向かって問うことしかできません。
だれか理由を知っていたら教えてください。
どうしてこの優しい人たちが、こんなことになるのか。
他に次回までに必要なものをお聞きしてみると
女性用の長靴、外作業用の雨合羽、傘、
敷き布団(数が足りず、男性は座布団で寝ていらっしゃるそうです)、
保険の書類に必要な写真を取るためのカメラ、衣装ケース、
そのほかにトイレ用消臭剤、たわしなど細かいものをお聞きしました。
おそらくここに水や電気、ガスが届くようになるのは
数ヶ月か先になることと思います。
これからは寒暖差が激しい季節となり、
夜は真冬のように寒いのに、日中は汗ばむほどになる、
体調を崩しやすい季節にもなります。
「でも今夜はみんなでご馳走だわ!
うなぎもあるし、缶詰もあるし。」
最後に物資をお寺の玄関までみんなで運んで
ご挨拶をして長観寺さんを後にしました。
穏やかで美しい北上川の水面。
道を挟んで反対側に広がる、津波の残した傷跡。
昨日牡鹿半島へ行った時には、一週間前とはまったく変わって
公的な物資支援のネットワークが行き渡りつつあることを感じました。
ありんこ支援隊としては、もう生活物資を運ぶ支援から
違う支援の形にかわっていくか、
あるいは、震災から一ヶ月たち、もうすぐありんこの活動も
必要なくなっていくのかもな、と思ったりもしたので、
正直この日に見た風景は衝撃でした。
こうした避難所はあちこちに、まだまだたくさん
点在しているのでしょうか・・・。
石巻市街地に入ると、もうたくさんのお店が営業を再開して
家族や恋人同士で買い物を楽しむ姿も見られます。
石巻の市街も地震の被災地ではあるのですが、
ついさっき目にした風景とあまりにもギャップがありすぎて、
コタンさんがポツリと、
「なんかさ、不公平だなって感じる。」
うん、私もそう思うよ。
最後にもう一度、SSERがケイタリングをされている
石巻商業高校の避難所を訪ねました。
まもなくSSERも他のNPO団体に引き継ぎ、撤収される予定だそうです。
この日は菅首相が被災地の視察でここへ来たのだとか。
米軍がグラウンドのヘドロをすごい速さで片付けていました。
この日は、深夜になることなく新潟に戻ってきました。
車の中から見る、犬の散歩をする人や、
自転車に乗る人、なんでもない風景に、
「普通に生活できることって、なんて幸せなんだろう。」
みんながそう思いました。
そして、それが毎日続くことがもう私たち3人にとっては
当たり前のことには思えなくなってしまいました。
「私も美味しいものは先に食べるようになるかも。」
とコタンさん。
こんな形で今ある幸せの儚さを感じるのはいやだけれど、
明日も、来週も、一年後も、十年後も
きれいな夕陽をみんなで見ることが出来ますように。
会社に帰ると、FAXが届いていました。
ブログにコメントをくださった「ビーバー隊長」さんからでした。
驚いたのは、送ることが可能なものリスト、という中に
雨合羽50枚、ブルーシート50枚が入っていたことです。
もちろんまだ誰にも今日のご報告はしていないのに・・・
また、同じくブログにコメントをくださった「ゆり」さんは
石巻で平日に動くことができるということで、
支援物資を必要なところにタイムリーに届ける難しさも
実際に感じていらっしゃる方でしたので
長観寺さんであったことを簡単にメールでご報告したら、
ゆりさんのお母さまのご実家が石巻のふとん店さんで、
そちらも浸水などの被害にあわれているにも関わらず、
何枚かお布団をご提供いただけるというお話を頂きました。
まったく偶然、検索でこのブログにたどり着いた
オンロードライダーの「ひなたの修」さんが、
ただ共感したというだけで募金をしてくださったり、
地震の影響で、ご自身が休職中だったり、失業中であるにも関わらず、
大切なお金を義援金としてをお送りくださったり。
電池を使わずに済むソーラーランタンを探してくださるありんこさん、
買い占めは絶対にするまいと、いろんなお店で少しずつ電池を集め、
うんうん言いながら家にたどり着いたありんこさん、
みなさんからのコメントやメールを読んでいると
別の意味で泣きそうになります。
被災地に行き、再び心が折れてしまいそうな衝撃を受けても
「自分が出来ることを、出来る範囲で、そしてみんなで!」と
一人一人、せっせせっせと大きな荷物を持って
全国からありんこが新潟へ、そして被災地へ向かって
ゾロゾロ行進している様子を想像することで
私自身、とても元気が湧いてきます。
それは少し大げさな言い方をすると、
「生きる希望」に近いものです。
帰り道、とれっくか~ちゃんが作ってくれたという
おにぎりをバスの中で食べました。
6つ入っていたおにぎりは、どれも見た目も味も違って
大きな海苔は食べる直前までパリパリであるようにと
おにぎりに巻かずに別になっていました。
とれっくか~ちゃんらしいなあと思いました。
きっと食べる私たちのことを考えながら
楽しませようと、そして自分も楽しみながら
食べる様子を想像して握ってくれたのが伝わってきます。
サンチさんとその仲間達から送られてきた物資に
このまま一人の方に渡せるようにと
スキンケアセットになったものが入っていました。
サイズごとの下着のセットもありました。
もちろんセットにしない方がいい場合もありますが、
こうしたセットを作ってくれたら、
ダンボールに入れたままの「もの」としてではなく、
それが一番必要とされる場、必要としている方に
手渡しできるのが「ありんこ支援隊」のよい所でもあります。
きっとこの方も、使う方のことを想像しながら
このセットを作ってくれたのだと思います。
SSERの山田さんが、いつぞやのつぶやきブログに
「ボランティアは想像力が大切」と書かれていましたが
押し付けでもなく、身勝手でもなく、思い違いもなく、
ミスマッチの無い、あたたかい想像力は、
それをやってあげる自分ではなく、
相手のことを思う優しさからのみ出るものなのでしょう。
全国から、たくさんの思いをありがとうございます。
私も一人の働きありとして、
ありんこの力を必要とされる方がいらっしゃる限り
皆さんの思いを現地に運びたいと思います。
投稿者:かまた 2011年04月11日 20:48
コメント
投稿者:tomoki 2011年04月11日 21:28
かまたさん、@BOSS様
毎週の支援活動お疲れ様です。
本日、LEDライト、化粧水等を発送しました。
明後日には到着すると思います。
では、本当にお体に気をつけて下さい。
投稿者:2ケツのGS 2011年04月11日 22:03
早くそんな時が来ると良いですね!
今は皆気持ちを強く持ちましょう
週末に運ぶ物資を積む能力に不足があれば、4t車でお手伝いしますが、、、、そんな時は遠慮なく御連絡下さい!
>私たちとしてちょっと寂しい・・・^^;
投稿者:越後長岡のおっさんオフローダー 2011年04月11日 22:47
お疲れ様でした。
投稿者:かまた 2011年04月12日 19:33
>tomokiさん
物資、すでに本日到着しました。
本当にありがとうございます。
次回、tomokiさんの思いと一緒にお届けしてきますね。
>2ケツのGSさん
ソーラーランタン届きました。ありがとうございました。
私たちの行く先は、まだ4tトラックだと通れないかもしれないので、
もっと道がよくなって、たくさん荷物がある時はお願いします。
本当に、ありんこが必要なくなって手持ち無沙汰な日々が、
早くやってくるといいですね。
>越後長岡のおっさんオフローダー さん
いえいえ、とんでもない。
軍手、確かに届けてきましたよ。
投稿者:ちゅうめ 2011年04月14日 15:08
こんにちわ。ちゅうめです。
今年小学校にあがった息子に聞いたところ
持っている絵本を被災地に寄付したいとのこと
フランダースの犬や幸せの王子など悲しいお話を抜いたので
沢山ではありませんし、上の子の時からの年季ものもあるのですが送らせていただきました。
投稿者:かまた 2011年04月19日 10:56
>ちゅうめさん
ありがとうございました。
野菜ジュースは十三浜に、絵本は寄磯の小学校にお届けしました。
ちゅうめさんにとっても思い出の品のはず、
息子さんにも「ありがとう」とお伝えください。