« 2011年03月 | メイン | 2011年05月 »
2011年04月26日
一回休み
雪国新潟にも、遅い春が来ました。
田んぼの雪は消え、冬の間ウトロンが思い切り走り回れた
広い雪原がなくなってしまった代わりに
つくしやフキノトウが、あぜ道にたくさん顔を出しています。
水仙、タンポポ、マンサク、ハコベ、カタクリと
この時期は、朝の散歩で毎日新しい春を見つける楽しい季節です。
今週は「それいけウトロ号」が車検のため、物資運搬はお休みです。
情けない話ですが、ちょうど牡鹿半島の「めぐろさん」からも、
「あなた、顔がむくんできたから少し休みなさい。」と
笑いながら言われてしまったこともあり^^;ゞ
私自身の体力回復のためにも、今週は休養をとりたいと思います。
土曜日、ちょうど私たちのお休みに合わせて
DR乗りの(ζ`)さんが物資を持って新潟に来て下さいました。
(ζ`)さんとはこれまで一度もお会いしたことはありませんでしたが、
ご自分との向き合い方とか、挑戦する姿勢とか、
ずっとブログで拝見してきて、じっくりお話してみたい方だったので
(なんたって、かまたの「心のライバル」でいらっしゃるので、笑)
下道13時間かけていらっしゃったというのに、休ませることもなく
弊社のミーティングルーム(別名:楽さん反省部屋)にお連れして
翌日のお昼くらいまで、たくさんのいろいろなお話をお聞きしました。
震災のこと、お仕事のこと、ご家族のこと、バイクのこと、ラリーのこと・・・
話す、というのは、考える、と同義語だと思うのですが、
(ζ`)さんは普段から、きっと様々なことを
いつもいつも考えていらっしゃるのだなあと、
お話を聞きながら思いました。
(私もぼーっとして生きていてはいかんなあと反省しつつ。^^;)
あれやこれやといろいろな話をしたおかげで、
久しぶりに、バイクに乗りたい、という気持ちが湧いてきました。
それまでは、いろんなチャリティーイベントに誘って頂いたり
そろそろ練習しなくちゃ、と思いながらも
自分の気持ちとしてはさほど「乗りたい」とは思わなかったのですが、
近くの林道にトラ車を持ち込んでトコトコ走ったら楽しいだろうなあと
芽吹き始めた山々を見て思うようになりました。
@BOSSもまだ一度もHUSABERGに乗っていないままですしね。
(ζ`)さん、本当にありがとうございました。
どうか懲りずに、また遊びに来てくださいね。(笑)
どこかで一緒に走れる日が来ましたら、よろしくお願いします。
(ζ`)さんをお見送りした後、
最近すばる君がよく練習に行くという「HASEオフロードパーク」に
ドライブがてら偵察に見に行ってみました。
この日、残念ながらすばる君はいませんでしたが、駐車場にトランポが1台。
以前しどきでお会いしたことのあるIBの方です。
ウトロンも広いところは久しぶり。
といっても、フリーにしても走り回るわけでもなく、
のんびり草など食んでいます。^^;
IBのパパさんがとてもウトロンを可愛がってくれましたが、
この日5才になるという小さなお嬢ちゃんは、
自分より大きなウトロンに、興味あるのに怖くて近づけません。(笑)
へ~、ちゃんと観覧席もあるんですね。
「ウトロンにね、お花摘んであげたよ。」
さっきの女の子が小さな花束をくれました。
「ありがとう、ウトロンに直接あげたら?」
「いやーーーーー!!!」
5才になった妹と、6才のおねえちゃん。
「もう一人下にいるんだよ。女3人。」
「女3人じゃないでしょ、サンニンシマイ、って言うんだよ。」
おねえちゃんが妹をたしなめるのが何ともほほえましくて笑えます。
「HASEオフロードパーク」はご覧の通りの砂地で、水が溜まることはありません。
昨日のような大雨が降った後の方がかえって走りやすいそうです。
本当にふかふかのサンド。転んでも痛くなさそうですが、
タイトなターンやフープスもあって、見ているだけで腕があがりそうです。^^;
IBパパさんが休憩をしている間、少しコースを歩いてみることにしました。
「どこ行くの?」
ん?コースを歩いて見てくるの。
「私も行くー!」
天気の良い日曜日の昼下がり、コースでかけっこをする4人と1匹。
私が写真を撮りながら歩いていると
「遅いよー!」と心配して走って戻ってきます。子どもは元気です。^^;
「ね、手つないで行こ。」
私の手のひらに、するりと入り込んできた小さな手。
こんなに小さな手と手をつないで走るなんて、いつ以来でしょう。
バイクなら1周1分かからないくらいの短いコースですが
全部が深い砂地のコース、駆け足で廻ったら
最後はウトロンもヘトヘトになったようで、帰りの車は爆睡していました。
※HASEオフロードパークの走行は、必ず事前にお店へのお申し込みが必要です。
詳しくはプロスHASE東港店さんまでお問い合わせください。
ボンネットに映る夕陽を見ながら、
「あ~、あの子達のおかげで、ものすご~く癒されました。」
と言ったら、
「確かに、しゃべるウトロンみたいだったね。(笑)」と@BOSS。
無邪気でまっすぐな命に触れて、私自身もとてもリフレッシュしました。
本当に、こんな休日は久しぶりです。
日が暮れて、今日という日が終わります。
今週は車検で、私たちは「一回休み」をさせてもらいましたが
私たちが休んでも、また、私たちにとっては「一週間に一回」でも
被災地で暮らす方の生活は毎日続いています。
そのことを忘れないで、バイクに乗っても、仕事をしていても
心のどこかにいつも被災地のことを置いておきたいと思います。
私たちに出来るのは、まずはそこからだと思うからです。
テレビが映し出さない限り思い出さないということではなく、
テレビが映そうが映すまいが、
あの地に暮らす方達はそこにいるのだという事実を
私も忘れないで日々を過ごしていきたいと思います。
投稿者:かまた posted at : 19:30 | コメント (6)
2011年04月19日
白浜荘、そして再び牡鹿へ
金曜日夜恒例の仕分け作業、
今回はビーバー隊からの27ケースも含まれていたので
少し早めに始めようと思いましたが、
GW向け広告の締め切り仕事をなんとか終えて
仕分けにかかり始めたのはやはり夜7時半。
「仕分け手伝いましょうか?」というコタンさんからのメールを読んで
携帯電話に向かって思わず手を合わせました。(-人-)
皆さんから送って頂いたたくさんの物資をクリアボックスに仕分けしていきます。
ありんこのページでデジタルカメラのことを更新したら
取説、付属品を揃えて、すぐに発送してくださったK藤さん、ライダーさん、
どうもありがとうございました。
絵本も、あっという間にたくさん集まりました。
児童書、学習冊子、子供用のパズルやぬりえも。
あ、オリビアだ!これ、私がもらっちゃおうかな。
ページを開くとそこにはお手紙が・・・
ひさいちの人へ
本をおくります。
まだよしんがいっぱいあるけど、がんばってね。
おうえんしています。
こやまもえより(小学校2年生)
う・・・もえちゃん、私ったら、やましいこと考えてごめんね。(TдT)
ちゃんとお手紙と一緒に被災地のお友だちに届けるからね。
さて、今回の石巻行きでいつもと違ったことが一つ。
現地石巻周辺でボランティア活動をしていて
このブログにコメントを下さった「ゆりさん」が、
私たちが次回行くまでの間に一度、長観寺さんを訪れて
その間の情報を送ってくださっていたことです。
以前のブログで「情報のこと」と題して、現状を正しく把握する難しさを書きましたが、
物資の支援は「現地の今」の情報がとても重要です。
ですが、この情報は、現地にいる方だからわかるというだけでなく
正確に実情を把握する力と、それを正確に伝える力が必要です。
例えば、避難所のどなたかに訪ねたら
「食料は毎日届いている」と言われたとします。
これを聞いて、「ああ、じゃあ大丈夫」と思うか、
どんなスパンで何が届いているのか、現在ストックはどれくらいあるのか、
届かないもので必要なものは何なのか等を把握できるかできないかで
その後にできる支援がまったく違ってきます。
木曜日に長観寺さんを尋ねていたゆりさんから届いたメールは
配給はおにぎり、食パン、ロールパン、バナナ。
食パンに付けるジャムなどが欲しいとのこと。
冷蔵庫がないのでバターはダメ、
野菜は差し入れで間に合っている。
果物はバナナ以外が欲しい。
私は今回グレープフルーツ12個、オレンジ13個、
りんご60個くらい差し上げました。
もし果物を持ってきたら、他の避難所がいいかも。
一日で食べきれる量の肉類(冷蔵庫がないため)。
果物の缶詰、
生クリーム、ヨーグルト(デザートにできる)
日持ちのする食品
というような内容でした。
そこで、ジャム、マーマレード、ピーナッツバターと、
魚肉ソーセージ、冷蔵保存のいらないレトルトミートボールなどを
用意して行くことにしました。
ちゅうめさんからも、パックの野菜ジュースをたくさん送って頂きました。
デザートにできるプリンもクーラーボックスで用意しました。
さて、仕分けとともに積みあがっていくクリアボッスを見上げると
どう考えてもそれいけウトロ号1台には載せ切れません。
かといって、今週持って行かないと一週間遅れてしまい、
今は必要だけど、来週にはいらないかもというものもあるし、
私たちの都合で持って行けないことで、
現地の方に一週間、不自由さを強いることもいやなので、
一緒に行ってくれるトランポ持ちの方を探しました。
@BOSSも、夜分に悪いと思いながら
気心の知れている数人に電話を掛けてみました。
taishoさんは「僕は行けないけれど、何人かトランポを持っていて、
ありんこさんの活動を知っている仲間がいるので声を掛けてみます」
そう言って直ぐに電話をかけてくれたようですが、
さすがに今晩言って明日と言うのには無理があり
可能な方がいなかったようで
「すみません、お役に立てなくて・・・」と
非常に悪がっていました。
いいえ、taishoさんのその真っ直ぐで純粋な気持ち、
とても嬉しかったです。
何も出来なくて・・・と言ってましたが、
十分に私達の心の支援になりました。
ありがとうございました。
そんな中、カカ1号&カカ2号さんが、
「私たちで役に立つなら、喜んで!」と
2つ返事で協力してくれることになりました。
二人ともバイク乗りでトランポ持ちですが、それぞれ家族持ちでもあります。
にも関わらず、今日の夜言って明朝出発という無理な話しに
「大丈夫、大丈夫!」と即座に対応してくれてありがとう。(TдT)
ようやく深夜11時過ぎに仕分けが終わりました。
送って頂いた箱のまま積んでいくものもいくつかありますが、
ほとんどはカテゴリーによって半透明のBOXに詰めていく事で
現地で必要なものの出し入れがとても早くなるのと、
残量がひと目で把握できるので、
時間がかかっても仕分け作業は必要なのですが
コタンさんが手伝ってくれなかったら、徹夜作業だったかも・・・^^;
【土曜日】
土曜日朝6時、カカ1号&2号さんがサロンドアトラスに来てくれました。
(あとで聞いたら、5時に「早着」していたんだとか。^^;)
カカさんのハイエースに物資を載せて、7時石巻へ向って出発。
まずは先週の日曜に伺った、十三浜を目指します。
途中高速でいきなり渋滞が始まり、何だ何だと思ったところへ
ちょうどいわきの「ゆーじさん」から電話がかかってきたので
ま、まさか原発で何かが!?と思いましたが、
渋滞は単に週末ボランティアが増えたための自然渋滞であって
電話の内容はいわきの現状の報告でした。^^;
「いわきは3.11より余震が大きくて、今回壊れる家もあるくらい。
原発はねえ、なんかこっちに住んでる人は、もう仕方ないって諦めてる感じ。
もっと遠くどこかへ避難しようにもお金がかかるし。
逆に20キロ圏内から、いわきに避難してくる人もいるし。
でも慣れって怖いね。誰もマスクや帽子なんかしてないよ。
それより今いわきで怖いのは、人だね。
火事場泥棒みたいな強盗・空き巣が多くなって、治安が悪くなった。
みんなだんだんお金もなくなっていくでしょ。
なんかさ、人がゾンビ化しそうなのが怖い。わかる?そういう恐怖。
それよりさ、今は南風が吹く時期だから
いわきより、ありんこさん達が行く地域の方が
放射線量は気をつけないとだからね!」
原発施設の仕事にも関わりのあったゆーじさんは
私たちのガイガーカウンターでもあります。( ̄∀ ̄;)汗
石巻河南ICから北上川河口方面へ。
このお地蔵さんは、ほんの少し位置がずれただけで
津波の後にも同じ場所に鎮座しています。
先週来た時には通れなかった道も通れるようになっていたり、
新しい道を作るための杭が打たれていたり。
道路が復興していく速さには@BOSSも驚いていました。
今まで道が寸断されていたために、他に比べて
物資支援が遅れがちだったこのエリアも
これからどんどん支援の手が入っていくようになると思います。
先述のゆりさんからのメールには、
長観寺さんの少し先に「白浜荘」さんという旅館があり
そこも避難所になっているらしいけれども、
その日は持って行った物資をすべて長観寺さんに差し上げて、
白浜荘さんには行く事ができなかった、
ということが書かれてあったので
私たちはこの日一番最初に、白浜荘さんへ伺ってみることに。
長観寺さんを一旦通り過ぎ、途中、たくみさんととれっくか~ちゃんと合流。
白浜荘さんは海岸を見下ろす高台にありました。
白浜荘さんに34名、そのすぐ下にある個人宅2軒に29名、
合計63名の方が避難をされていらっしゃるとのこと。
長観寺さんと同じく、自治体に把握はされていたものの
ここへ来るまでの国道が寸断されていたため
物資は長観寺さんと同じような届き方だったようです。
そのため、長観寺さんと同じセットで用意をしてきた
ジャム関係、レトルトの肉料理を手にされると
「奥さん、ほら、ジャム頂きましたよ!うれしい!」
こんなに喜んで頂けるということは、
やはり食パンやロールパンを何もつけずに
そのまま食べていらっしゃるということのようです。
お聞きしたら、長観寺さんについてのゆりさんのメールにあった通り、
配給は、おにぎり、食パン、バナナが届き、
野菜はある日一度にたくさん配給される日があるので、
特に今のところは大丈夫です、とのこと。
プロパンで、ある程度自炊することもできているそう。
雨が降っていたので、玄関までの軒下に物資を並べさせていただくと
「えー、コーヒー、嬉しい!いいんですか?
毎日みんなよく飲んでいるから。あ、ココアもある!」
コーヒー、紅茶、ココアなどのお茶関係、下着、長靴、
トイレと台所用品、化粧水、雨合羽、安全靴、野菜ジュース、etc
ガソリンと灯油もお渡しし、
ランタンと乾電池もたくさん手にとっていただきました。
まだまだここへ電気が通るのは先のようです。
絵本もお届けしてきました。
男の子は乗り物と戦隊ものが好きですね。
今回、Ayumiさんの提案で、鯉のぼり(100均ですが^^;)を数本用意して
物資の箱の隅にそっと置いてみましたが、
小さな男の子が喜んで3本、勇ましく肩に抱えていきました。
その後、長観寺さんへ。
自衛隊の方が捜索作業をされていました。
白浜荘さんは避難所が被災現場から少し奥まって離れているので
道を降りていかなければ被災の様子を目にすることはありませんでしたが・・・
長観寺さんの階段を登り、物資を運んで振り向くと、
そこには皆さんが長年暮らした町が広がっています。
長観寺さんは現在、一週間前の50名から
35名くらいまで避難されている方の数が減ったそうです。
本当はここから少し離れた、「サンパーク」という公式避難所に
できるだけ移るようにと自治体から言われているそうなのですが、
大切な方、大切なものがここに眠っていて
まだ見つからないということもあって
やはりここを離れがたいのだと思います、と
お寺の方が言われていました。
小学生くらいの子ども達だと、絵本や靴の入った箱を前に
あれがいい、これがいいと声を上げながら選んでくれますが
中学生、高校生くらいになると、一歩引いて遠くから眺めています。
自分から何かを探して手に取ろうとはしません。
私たちがこうした物資を運んでくることも
どんな気持ちでいるのか、とても気になります。
彼女達の心が安らぐものがあったら、届けてあげたい、
そう思うのですが・・・。
食料品や、台所用品、トイレ消臭剤、洗濯用品など
細々した生活物資はたいへん喜んでいただきましたが、
用意した物資の中で、大きなもの、ブルーシート、スコップやホース、
サイズが大き目の長靴や安全靴、台車などがほとんど余ってしまいました。
どうしよう・・・。
本当は私たちは、このエリアでほとんど使って頂けると思っていたので
カカさんにお願いをして、今回持ってきたのですが
それはある、それも昨日持ってきてくれた、というものが多くて
こうなるとあとは全部持ち帰りかも・・・。
帰りながら、近くにあるという公的避難所がどんな様子か
一応行ってみることにしました。
ソフトバンクの移動基地局。
サンパークの避難所には大きな白いテントが立ち並び
あらゆる職種の工事車両が入ってきていました。
ここで必要な物資は言えば届くようになっていると思われるので
あえて聞くこともせず、私たちはサンパークを後にしました。
カカ1号&2号さんも、とれっくか~ちゃん、たくみさんも
明日は用があるということなので、石巻で解散することに。
今日は一日ありがとうございました。お疲れ様でした。
さて、皆さんと別れて@BOSSと相談しました。
おそらく、先週の感じでは、牡鹿半島ではどこの避難所も
物資はもう行き渡っていると思います。
かといって、皆さんから送っていただいた物資や
お預かりした義援金で調達した燃料を無駄にしたくはありません。
でも、ありんこ支援隊としては、荷物を空にするためだけに
特に必要ないというものを避難所に一方的に
ど~んと置いてくることだけはしたくありません。
それと、月曜日は朝イチから動かせない仕事が入っているし
@BOSSも私も、もう一ヶ月以上休んでいないので、
日曜は一日ゆっくり体と頭を休ませた方がいいかも・・・と思っていたのもあり
残った大量物資を前に考え込んでしまいました。
必要とされる物資を届けるのであれば、
たとえ疲れていても喜んでやれる力が湧いてきますが
必要でないかもしれないものを届けるのは足が重い・・・。
とりあえず残った物資をトレックさんに届けて私たちは新潟へ帰り、
後日どこかに配ってもらうという方法もあります。
でも・・・・・・。
話し合った結果、やっぱり私たちは自分達の足でこれを届けてみて
どこでももう不要とされることで、本当に牡鹿で物資が行き渡ったかを、
この目で見届ける責任があると思い直しました。
もう一日残って回ってみることにします。
ということで今日もテント泊です。
近くにお風呂もないし(泣)、今日はこのまま寝ます。
おやすみなさい。
明け方近く、ものすごい風で目が覚めました。
テントが横風を受けて、今にもひっくり返りそうです。
@BOSSが四隅をしっかり止めてくれていたので
実際にひっくり返ったりすることはないのですが
「怖い」と思うような強風です。
真っ暗な中、ゴオオッという風の音に「帰りたい」と思いました。
その時、あ、私は帰れるんだ、
でも家を流された方たちは、どこにも帰れないんだ、と
水を浴びせられたような気持ちになりました。
【日曜日】
いつのまに再び寝たのか、
朝5時、ウトロンに顔を舐められて起こされました。
よし、牡鹿半島へ行こう。
行って、必要とされれば届けて来れるし、
どこにも物資を必要とされなければ、
牡鹿でのありんこの使命は終わりと確認できる。
朝6時30分、渋滞を避けるために早めに出発。
コンビニはセブンイレブンもローソンも
まだ24時間営業はしていないので
昨日とれっくか~ちゃんからもらって
少し固くなってしまった手作りおにぎりをありがたく頂きました。
他のコンビニとは流通経路が違うのか、
ファミリーマートはなぜかどこも営業をしています。
それともこれも、被災地支援という経営者の方針なのでしょうか。
多分、そうだろう、と@BOSS。
女川の港へ入るあたりで、荷崩れしそうな荷物を直そうと停車すると
すぐ後ろに、70代くらいの小さなおばあさんが立っていました。
バスの停留所でもないし、何しているんだろう?
すると、おばあさんは自衛隊の車両が通るたびに
「ありがとうございます!気をつけて行ってきてください!
ありがとうございます!」
あらん限りの大きな声で叫びながら、日本国旗を振って
深々とお辞儀をしています。
朝7時には自衛隊が持ち場につくので、おそらく毎日ここで
お礼を言いながら、一台一台見送っているのだと思います。
私達も、被災地をこれまで5週間通って見てきましたが
現地での自衛隊の方々の活動に頭が下がる思いは一緒でした。
自衛隊の方にその声は聞こえないかもしれないけど、
そうせずにはいられないのであろうおばあさんの気持ちが伝わって、
少し涙が出ました。
今日は最初に寄磯小学校へ行くので、いつもと反対周り。
こちら側から女川へ入るのは初めてです。
カーキ色の車両が、あちこちですでに作業を開始しています。
夕方通ると、いつも灯りが点いている仮設の小屋。
発電機があるようですが、避難所なのかどうかはわかりません。
でも今日は表に人が出ていらっしゃったので、@BOSSが
「何か必要なものがないか、聞いてみよう。」
支援物資を運んできたんですが、ブルーシート、お使いになりますか?
すると、
「え?いただけるんですか?
実はここは避難所ではないんですが、お風呂を沸かすことができるので
この先にある海尖閣さんに避難されている方たちが入りに来るんです。」
じゃあ、目隠しや風除けに使えますね。
ランタンもありますが・・・
「いやあ、ありがたいです。毎回何かあるたびに
発電機を起こさないといけなかったので
ランタンですぐ灯りが点くのなら・・・」
こちらは下着や食料は大丈夫ということでしたので
他に、雨合羽や女性の方用の化粧水、ハンドクリームなど
これがあると助かる、と言われたものをお渡ししました。
お風呂場に支援物資をお届けしたのは初めてですが、
あのお風呂にも今夜ランタンが灯って、
少しだけ明るい夜を過ごして頂けたら嬉しいです。
今は静かで美しい海。
救援物資でしょうか、捜索でしょうか。
ヘリコプターがホバリングをしています。
あれから2度の大きな余震と、細かい余震があり、
初回にはなかった亀裂が道路にたくさん入っています。
あちこちで応急手当のような修復をした跡もみられますが
地震と修復の追いかけっこのようです。
今大きな余震が来たら、私たちも帰れなくなるかもしれません。
最初の頃、寄磯小学校へ行くためには
女川原発内(ナビのグレーゾーン)を通らなければなりませんでしたが
今は通ることなく避難所へ行くことができます。
松林の中に見える白い建物が原子炉建屋です。
ところどころに立っている、「原発反対」の手書きの看板には、
「建設やめるか、事故で止めるか」と書かれた文字が・・・。
土砂崩れを防ぐネットは張られていますが、
頼むから揺れないで~(><)
ここは一部崩れていますね・・・( ̄∀ ̄;)汗
海辺に面した寄磯小学校には
100人規模の方が避難されていらっしゃいますが
皆さんのリーダーとなっているお父さんがいて
避難所内のあらゆることを把握していらっしゃいます。
「今日は罹災証明書を作ってもらう日で、
今役所の人が来ていて順番に手続きしているんだよ。」
というようなことを女川弁(?)で言われますが、
半分くらいしかわかりません。^^;
「あ、スコップは使う。ありがとう。」
「ホースは昨日山形の業者さんが来て、プールから
水を引けるようにしていってくれたからいらない。」
「雨合羽、下着はあれば使えるから置いていって。」
という具合に、いる、いらないがはっきりしています。
女性の皆さんにも見ていただき
トイレ掃除用具、台所掃除用具、下着、絵本、
マジック、化粧水、ハンドクリーム、リップクリーム等
ダンボールに詰めながらお渡ししました。
(ビーバー隊長、ここの避難所は広いコンクリート敷きなので、
女性の方に台車はとても喜ばれましたよ。^^)
防寒具については、
「ここは暖かくなったから、大丈夫。
でも、ここで使わないからって言っても粗末にしないでね。
もっと北の方へ持っていってあげて。まだ寒いはずだから。」
はい、そうします。
「あと洗面器みたいなのってありますか?顔を洗うのに。」
ああ、すみません。バケツは昨日他でお渡ししてしまったし・・・
ひしゃくがありますけど。
「ああ、それでいいわ、ありがとう。」
リーダーのお父さんに「これはどうですか?」
「ああ~、これはみんな喜ぶよ~。いいの?こんなに。
福島に行った人から聞いたけど、今どこに行っても
一人2箱くらいしか買えないんだってね。」
というようなことを女川弁(?)で言われますが
やっぱり半分くらいしかわかりません。^^;
リーダーさんに手渡したタバコを見つけた若い男性が「あっ!」
「夜になったらちゃん~とみんなに分げてやっがら。」
こうして大きな物資は、ホースを残してほとんど
必要なものとして喜んで受け取っていただきました。
下着も前回は「昨日届いたからいらない」ということでしたが
やはり状況はその時その時で変わっていくのでしょうか。
あと残ったのは燃料とランタンだけ。
ここは周辺地域の電気が通るのははまだまだ先なのですが
この避難所だけは小学校が始まるからということで
特別措置であと数日で電気が通るのだそうです。
洗面器も、たぶんこれまでは
水が使えなかったから必要なかったのが
給水車が来てプールに水をためていくようになったので
限られた資源を無駄に使わないように、洗面器が必要となったのでしょう。
必要とされる物資は、その避難所の生活状況に合わせて
どんどんと細分化されていきます。
沖に浮かべたたくさんの船。
瓦礫撤去作業をする車両。
先週にはなかった真新しい電柱が等間隔で立っています。
一旦つながってまた電気が点かなくなったという
「めぐろさん」へ続く道にも電柱が立ち並び、電気を送っています。
もうめぐろさんにお届けできるものはほとんど残っていないのですが、
帰る前に顔を出して行こうと思います。
女性陣が何か洗い物をしていました。
旅館で使っていた食器のようですね。
「これね、海水をかぶっちゃったけど、私たちがいつか
ここを離れて新しい避難所へ移る時に持って行けるようにって
社長が言ってくれたのでみんなで洗っているの。
二度目の嫁入り道具だって。(笑)」
以前来たときには、ストーブの周りで
ただじっとストーブ(あるいはどこか)を見つめて
ラジオを聴いていたおじいちゃんも
今回は私たちに「遠いところをありがとう。
うちもすぐこの近くなんだけど、み~んな流されちゃったよ。」
そんな話を自分からして下さるようになりました。
オレンジの作業着を来た社長さんが帰って来られました。
「ああ、いつもすいませんね。ありがとう。」
すみません、今日は2日間の最後にお邪魔したので
燃料とホースしかないんです。^^;
「あ、ホース使うよ、切って使えば周りの家でも使えるし。
それにガソリンも灯油も軽油もなくなってきていたから
入れてもらえるとありがたいなあ。
できるだけ燃料を使わないで済むように軽トラで動いているんだけどね。」
他の避難所は燃料は昨日届いたところが多くて
あまり出なかったから、全部こちらに入れていきますね。
ガソリンを携行缶に移す社長さん。
あ、あとタバコも社長さんに残しておいたんです。
と、2カートンをお渡しすると、
「あ~!」といいながら、手を合わせた社長さん。
昨日、他の皆さんは被災地支援で
鳴子の温泉保養所へ招待されて行ってこられたそうですが、
避難所を空けるわけにはいかないので、社長さんはお留守番。
女将さんと社長さんが休むことは一時もありません。
余震がくれば一番に起きて皆さんを起こし避難させ、
いつもいつも誰よりも動いていらっしゃる社長さんに
ほっと一服休んでいただけたら、ありんことしても嬉しいです。
めぐろさんの玄関を出たとたんに
大きな地響きがして地面が揺れだしました。
「余震だ。でも慣れちゃうね。あんまりしょっちゅう揺れると。」
どうかお気をつけて。また来ます。
結局こうして、積んできた物資は全部必要とされて
バスは空っぽになったのでした。
不思議です。
牡鹿半島ではもう物資の支援は行き届いたと思っていたけれど
決してそんなことはありませんでした。
けれど必要とされる物資は確実に変わってきています。
そして、それらは、ここからたった25kmしか離れていない
津波を受けていない石巻市街地で手に入るものも多くなってきました。
ありんこ支援隊の支援のスタイルも変わっていくと思います。
石巻で手に入るようになってきたものは、
皆さんからわざわざ新潟に送っていただく必要はなくなってきますので
買って揃えるのが金額的に難しい中古デジカメなどはお願いしながら
次の支援のカタチに移っていくでしょう。
私たちも、皆さんにとってもいい支援のカタチを探りながら、
これからも、息の長い支援をしていきたいと思います。
帰り道、「福島県土湯温泉の湯」を運ぶ自衛隊の運搬車を見ました。
温泉に入っていただくための支援活動なのでしょうか。
東北にも桜が咲き始めました。
月曜日、@BOSSは長岡市の保健所で
被曝チェックのスクリーニングを受けて来ました。
(念のため、ウトロンも連れて行ってもらいました。
私は会社を離れられなかったのですが、数値的には同じでしょう。)
結果、自然界の放射能レベルが60くらいなのに対し
@BOSSもウトロンも、最高で80から100くらいだったそうです。
「直ちに健康に影響を・・・」とも遠くかけ離れた数値でした。
最近、ヨーダ婆はまた知り合いから下着を集め、
今度は「ジジシャツ」をたくさん手に入れて会社に持ってきてくれました。
29日には、所属している「花の会」で
地元の避難所に、避難されていらっしゃる方と一緒に
花を植えるのだと楽しそうに言っていました。
コタンさんのブログで紹介されてされていた
「私たち、この人だけを助けることにしたの。」と言っていたおばさん。
みんなが誰かをそうしたら、これってすごいことだと思います。
帰りの高速でそんな話をしていたら、@BOSSが
「たぶん、ヨーダ婆もそのおばさんたちも、
現地の人のことが、もう自分の心に入って、
考えなくても当たり前にやっているんだろうね。
親身になって考える、っていうのは
親身になれない人には難しいことだけど
親身になっている人には実に簡単で
何気なくやっちゃう普通の事なんだと思う。」
そうですね。ありんこ支援隊の物資リストにはないのに、
ばーにーパパがタバコを被災地の方にって
あんなにたくさん買って持ってきてくれたのだって
きっと被災地のお父さんたちのことが心にふっと思い浮かんだのだと思います。
だって、寄磯小の男衆の皆さんも、めぐろさんの社長さんも
あんなに嬉しそうな顔で受け取っていらっしゃいましたもんね。
留守中会社の入口に、越後長岡のおっさんオフローダーさんが
「被災地の子どもさんへ」と書いたメモを入れて
届けてくれたココアも、白浜荘さんでとても喜んでいただきました。
被災者のことを想う、想像力。
一方的な思い込みによる押し付けや、自己満足のための支援は
単に相手や周りの人を傷つけるだけに終わる事もあるけれど、
大事なことは「被災地と皆さんの気持ちが少しでも前に進むこと」。
みんながいつも心のどこかに「被災地のこと」を思いながら
すごくすごく普通に、こうしたことが空気のように広がっていって、
いろいろな支援のカタチが生まれたらいいなと思います。
笑顔になってもらって、自分も嬉しい。
それが支援の気持ちだと思います。
被災地をはかなんで強迫観念と良心の呵責のような
自らの「負の気持ち」を晴らすために支援を行おうとするところには
被災者への想いが欠けているので
そういう理由での支援はしないでほしいな、と@BOSSは言います。
みんなが大きな親戚のように他の人を思いやる。
そんな日本になったらいいな、と思います。
私も日本の力を、信じています。
【追伸】
スポーツランドしどきの皆さんから、昨日ポストカードが届きました。
拝啓
先日は遠路わざわざお越しいただき、
スタッフ一同深く深く感謝申し上げます。
まだまだ余震は続いておりますが、コース、施設に被害はなく、
少しずつお客様に走っていただいております。
今回改めて、しどきがいかに皆様に愛されているか、私達も認識し、
又、幸せな事とし、胆に銘じて、このコースを守り抜いて行きます事に、
しどきスタッフは全力を尽くして参ります。
本日しどきに桜が咲きました。
宮城、岩手、八戸と必ず桜は北上していくことでしょう。
本当にありがとうございました。 敬具
しどきの皆さん、こちらこそありがとうございました。
大好きなしどき、早く走りに行きたいです。
投稿者:かまた posted at : 13:10 | コメント (8)
2011年04月11日
再び牡鹿半島、そして十三浜へ
金曜日、仕事を終えて物資の仕分け作業を開始したのは夜7時30分。
雨が降っていたので、会社の駐車場にテントを立てて
その下にコンテナボックスを並べて仕分けをします。
全国のありんこさんから届く箱の中身は
どれもわかりやすく物資を分けてくださるおかげで
前回よりもかなり時間の短縮はできましたが
すべての仕分け作業が終わったのは夜11時30分。
待ちくたびれたウトロンが、ドアの内側で
若干ふてくされ気味で寝ています。(笑)
今回は、大工作業も、運搬作業も、掃除も、炊き出し料理も、
スポーツマッサージも、どれをとってもプロ並みの
コタン親方と3人で行く予定です。
が、荷物の量が多くて、バスだけでは
物資を少し置いていかなくてはならないかも・・・
とりあえず大きなコンテナは「それいけウトロ号」に、
細々した物は「それいけミニウトロ号」に載み込んで
本日の作業は終了。おつかれさまでした。
【土曜日】
雨が少し残る肌寒い土曜日の朝、
ミワ家が新潟経由で同行してくれることになり、
それいけミニウトロ号のコンテナはミワコング号に積み替えて
トランポ2台で宮城県の牡鹿半島へ向かいました。
先日深夜の大きな余震で、道は前回より悪くなっているようです。
前回には無かったのに、あちこちで道が陥没して
マンホールが飛び出しているのを目にしました。
牡鹿半島へ入ると、
新潟ナンバーのNTT工事車両が何台も並んで、
先週に引き続き電線工事を行っていました。
でも確か、先週工事をしていたのもこの辺りだったような・・・
最近ようやく「めぐろさん」にも電気が通ったと聞きましたが
木曜深夜のマグニチュード7.4の余震によって
またやり直しとなってしまったのでしょうか・・・
この日、「割烹民宿めぐろ」さんには
先週は不在だった社長さんもいらっしゃいました。
ちょうど函館ナンバーの給水車がやって来ていました。
下着や野菜などの食料も燃料も、私たちが持ってきたような物資は
前日に公的支援でたくさん届いたそうです。
「ここは他に比べたら恵まれていると思うんだ。
だからもっと大変なところに持っていってあげて。
でも、中でコーヒー飲んで行ってね。」
めぐろさんは先週電気が通じたのに、その2日後、
深夜のマグニチュード7.4の大きな余震で
また電気のない生活に戻ってしまいまいました。
それであればランタンを置いていきますね。
「あ、ランタンかあ、こりゃあいいや。」
「この間の余震は、11日の地震より揺れは大きかったね。
みんな逃げろ!って声をかけたから誰も怪我は無かったけど
真っ暗だから、裸足で飛び出した人もいて
裸足は絶対だめだぞ!って後で注意したんだけど、
今度から寝る時枕元にランタンを置いて
持って逃げればいいね。」
「今回の余震で建物にもひびが入っちゃって、
この大広間の柱も、ほら、こことそこを補強したんだ。
でも、もう一度大きいのが来たら
持ちこたえられないかもしんないね。」
そう笑顔で話されます。
「正直ちょっと疲れちゃった。あ、言っちゃった。」
ぺろりと舌を出しておどけて言われますが
きっと「疲れた」「辛い」を言わない約束なのでしょう。
「この間、報道ステーションに出たんだよ。
その時、ドラム缶風呂を焚いていてたから
真っ黒な顔でテレビに出ちゃってねえ。
でもそのテレビを見たって人から、はがきがきたんだよ。
ほら、見せてあげて」
ということは、郵便物は届くようになったということですね。
女将さんが棚から大事そうにはがきを出して見せてくれました。
震災を受けても笑顔で元気に頑張っているめぐろさんと
そこで避難している皆さんの元気な姿に感動して、
こんなことしかできないけれど言葉のエールを送ります、
そんな内容のはがきでした。
「嬉しいよね、復興したら必ず行きますって。
ここは、民宿の安さと割烹の美味しさを売りにしようって
おれが『割烹民宿』とつけたんだよ。
もう一度やりたいねえ。」
復興したら私たちも必ず泊まりに来ます。
次は牡鹿病院へ。
この日はスタッフの方に休みを取らせたということで、
出てこられる方も前回の半分くらいでした。
やはり同じように前日、物資も燃料も十分に届いたので、
ここで手に取られ物は化粧水やハンドクリームが多かったのですが、
一番喜ばれたのは、やはりランタンでした。
ここも電気が通じたのはたった一日だけ、
翌日には余震で再び電気が使えなくなったそうです。
(水道、ガスは相変わらず駄目で、給水車が回っています。)
「どういう支援団体の方なんですか?」
一人の看護師さんに聞かれました。
私たちはオフロードライダーつながりで
支援の物資を集めているんです。
「バイクですか。私もトライアスロンをやっているんです。
宮古島にも行く予定にしてたのに
もう全部駄目になっちゃったなあ・・・」
そんなこと言わないで、
必ずまた、いつかやれる日が来ますよ!
「うん、そうですね、またやれる日来ますよね!」
東北の病院は仙台市を除いては、震災前から
医師不足による医療崩壊が問題となっていて、
医療スタッフの過酷な労働や、入院施設の不足が
深刻化していた所に、震災によりスタッフが減ったことで
病院に残ったスタッフは休めず、
自分も帰る家がないのに働き続け
物資はスタッフ用ではないので回って来ず、
体力と精神力が疲弊してしまうので
無理にでも休ませないといけない状況だとニュースで見ました。
病院のスタッフの方には、スタッフの方を対象とした
体と心を守るための支援が必要になっているのかもしれません。
こうしていると静かで美しい松島の海です。
寄磯小学校に着いたのは夕方5時半。
ちょうど夕食の時間に当たってしまうかなと思いましたが
夕食は5時からで、もう皆さん食べ終えた後でした。
寄磯小学校に来る前に@BOSSと相談をしました。
ここは100人規模の避難所なので、
どれくらいのものが必要とされるか読めない部分があります。
先週のようにここが最終地点なら
すべてをそのまま置いていくこともできるのですが
明日も行く予定があるので、
コンテナボックスを並べることはしないで
ホワイトボードに物資のリストを書いて
必要なものだけ、渡せる数を手渡しすることにしました。
が、実際に責任者の方にお聞きしたら、
やはりここも昨日、大規模な物資の支援があり、
下着も野菜も燃料も、現在特に不足しているものはないそうです。
「漫画はどうですか?
出版社の方が送ってくださった本があるんです。」
「そうですか!子供たちに聞いてみます。」
すぐに、子供たちが校舎の奥から飛び出してきました。
「わー!ジャンプだ!」奪い合いです。^^;
コミック文庫も嬉しそうに、どんどん手にとっていきます。
「絵本はもうないの?」
小さな子供は、大きな絵の絵本も読みたいようです。
この漫画、実はブログにコメントを頂いた
集英社にお勤めの「ussyさん」から送って頂いたものです。
子供向け、女性向け、成人向けでセレクトして頂きました。
(『少年ジャンプ』だけは、部署が違うということで
関係者であるにも関わらず、自費で書店で購入されたそうです。笑)
ussyさん、ありがとうございました。
今頃みんな順番待ちで、漫画を読んで過ごしていることと思います。
漫画はたいへん喜んでいただきましたが、
さて、新潟から持ってきた燃料も食材も下着も、
そういったものは前日届いたばかりということで、
一日の差で、どこでもほとんど必要とされませんでした。
また、牡鹿半島ではリクエストをすると
公的支援機関から届く体制がこの一週間でかなり整ったようです。
このこと自体はとても喜ばしいことなのですが、
私たちとしてちょっと寂しい・・・^^;
明日初めて行くところでも、もしかしたら同じ状況で、
何も必要とされない可能性もあるけれど、それはそれ。
物資支援はこうして少しずつ収束をしていくのだと思います。
この日はテント泊です。
暖かくなったとはいえ東北の4月、
夜はやっぱりかなり冷え込んできます。
避難所の皆さんは暖かく眠れているのでしょうか。
おやすみなさい。
【日曜日】
朝食はめぐろさんで頂いた支援物資のパンです。
2日に1度、50個のパンとお茶が必ず配られるのだそうです。
とても食べられない、けれど捨てられない、ということもあり
「持って行ってもらうとありがたい」ということでしたので
こちらもありがたく頂きました。(-人-)
前日の牡鹿に続いて、この日行く予定にしていたのは、
とれっくかーちゃんから@BOSSに
「一緒に行って欲しい」と連絡があった
北上川河口近くの十三浜の「長観寺」さんというお寺です。
あまり支援物資が届いていないらしい、という話しかわからず
人数も必要なものも把握しているわけではありません。
もしかしたら、もう十分行き渡っている可能性もありますが
物資の支援ボランティアには、
そういうこともありうる覚悟は常に必要です。
とれっくかーちゃんと、たくみさんと合流して十三浜へ。
北上川沿いに走ります。道は悪いけれど、きれいな景色です。
が、河口に近づくにつれて様子が一変してきました。
「え・・・・・・?」 目の前にあるのは原爆ドームではありません。
そこに広がった風景に、皆言葉を失いました。
Googleの航空写真で見ると、この○をつけた場所に
避難所となっている「長観寺」さんがあるのですが、
(クリックすると少し大きくなります。)
写真の奥の高台にある「長観寺」さんを残して
その集落には何一つ残っていません。
ここへ来るための国道などが寸断されていたため、
集落内の道を開ける作業用重機の到着も遅かったためか、
今日で震災からちょうど一ヶ月も経つというのに
これまで行った避難所のどこよりも支援物資が届いておらず
まわりの地域から分けてもらったりしていらっしゃったようです。
それでも最近はいろんな科のお医者さんが毎日派遣されて
回ってきてくれるとのことでした。
(歯医者さんから風邪薬をもらったりということも。)
私達もこの景色の中、お寺のところまで進んで行きました。
「何かちぎれた部分だけでも残っていればいいんだけどねえ・・・」
壊れた家の跡から何かを探そうとしていお母さんがいました。
「でもな~んにもなかったわ。」
両側に灯篭の礎石だけ残った参道入り口に車を停め
物資の入ったコンテナを降ろして並べます。
「本当にいいんですか?すみません、ありがとうございます」
皆さんは控えめに下着や靴下のサイズを確認したり
缶詰やお菓子を手に取ったりされています。
50名くらいの方がこちらに避難をしていらっしゃるということなので
「この物資はそっくりこちらにお渡ししていきますよ。
箱ごとお寺に運びましょうか?」
と、とれっくか~ちゃんに話をしたら、
「うん、最後はそうすればいいんだけど
こうして皆さんが『自分のもの』を選ぶことを楽しむ時間も
大事なことだと思うのね。だからまずはこのままで・・・。」
燃料もあまりないということだったので、
積んできたガソリンや灯油をほとんどここで降ろしました。
皆さんからお送りいただいた携行缶も活躍しています。
「こちらがご住職です。」とご紹介された方にご挨拶しました。
「こんなことまでしていただいて、本当にありがとうございます。
ここは月浜という地域です。長いことここにおりますが
このような事態は、後にも先にもありません・・・」
ご高齢のご住職は、静かな口調でそう話されました。
皆さんで工夫をして作ったらしい物干し場や
プレハブとバスタブを使って昨日できたばかりというお風呂。
少しずつ生活の場は作られつつあるようですが
震災から一ヶ月たつのに、未だこの状況ということが信じられません。
「ここの避難所も最初は100名くらいの方がいたんですが、
親戚を訪ねたり、他の地域に移ったりして
今は50人くらいの方がここに避難されていらっしゃいます。
でも、この周辺では亡くなられた方の数のほうが多いんです。」
ただうなずきながらお聞きするしかできませんでした。
また、ご住職の娘さんに当たる方でしょうか。
「ここはこれでもまだ震災当時よりもよくなったんですよ。
最初の頃は今私たちがいるここにも、ご遺体がたくさんあって、
お寺に入ってくる道も全然なくて、
ようやくここまで車が入って来れるようになったんです。」
「津波は役所の屋根を越えてこっちへ向かって来てね、
私もその波を見て必死で高台に逃げて助かったんです。
本当はあの大きな役所の建物がこの街の避難所だったんです。
まだ新しい建物だったんですよ。
だからそこに逃げた方も大勢いるんですが、
その避難所に逃げた方は、全員が・・・。」
避難所であった市役所の支所。
震災後、これまで毎週末に宮城に来て今日で4回目です。
その間、激甚災害地と言われる地域もずっと目にしてきました。
先回のブログにも書いたように、津波の爪あとにも
少しずつ目と心が慣れてきたはずでした。
けれどここは今まで訪れた場所とは違っていました。
これまで訪れた避難所は、津波の被害にあった沿岸部から
すこし離れた高台や、内陸にあることがほとんどでしたが
ここは一ヶ月前までは、普通に生活してきたそのまま同じ場所でありながら、
津波の一撃で、懐かしい景色が全て失われてしまった被災地でもあり
直後は多くの顔見知りの方々が横たわっていた真っ只中でもあります。
でも、その変わり果てた故郷を見下ろす唯一残った高台のお寺で
今は皆さん、寄り添うように生活をしていらっしゃいます。
「こんなにして頂いていいんですか?」
「申し訳ないですねえ、ありがとうございます。」
そんな言葉を言いながら、本当に申し訳なさそうに
遠慮がちに下着を選ぶお父さん、お母さん達があまりにも優しくて
笑っていないと涙が出そうになります。
でも、私がここで泣いていい理由は一つもありません。
これが戦争の結果なら、私も相手の国を憎むかもしれません。
でも今のこの目の前の惨状は、誰を恨むこともできず
ただただ「いったい、どんな意味があるのですか?」と
天に向かって問うことしかできません。
だれか理由を知っていたら教えてください。
どうしてこの優しい人たちが、こんなことになるのか。
他に次回までに必要なものをお聞きしてみると
女性用の長靴、外作業用の雨合羽、傘、
敷き布団(数が足りず、男性は座布団で寝ていらっしゃるそうです)、
保険の書類に必要な写真を取るためのカメラ、衣装ケース、
そのほかにトイレ用消臭剤、たわしなど細かいものをお聞きしました。
おそらくここに水や電気、ガスが届くようになるのは
数ヶ月か先になることと思います。
これからは寒暖差が激しい季節となり、
夜は真冬のように寒いのに、日中は汗ばむほどになる、
体調を崩しやすい季節にもなります。
「でも今夜はみんなでご馳走だわ!
うなぎもあるし、缶詰もあるし。」
最後に物資をお寺の玄関までみんなで運んで
ご挨拶をして長観寺さんを後にしました。
穏やかで美しい北上川の水面。
道を挟んで反対側に広がる、津波の残した傷跡。
昨日牡鹿半島へ行った時には、一週間前とはまったく変わって
公的な物資支援のネットワークが行き渡りつつあることを感じました。
ありんこ支援隊としては、もう生活物資を運ぶ支援から
違う支援の形にかわっていくか、
あるいは、震災から一ヶ月たち、もうすぐありんこの活動も
必要なくなっていくのかもな、と思ったりもしたので、
正直この日に見た風景は衝撃でした。
こうした避難所はあちこちに、まだまだたくさん
点在しているのでしょうか・・・。
石巻市街地に入ると、もうたくさんのお店が営業を再開して
家族や恋人同士で買い物を楽しむ姿も見られます。
石巻の市街も地震の被災地ではあるのですが、
ついさっき目にした風景とあまりにもギャップがありすぎて、
コタンさんがポツリと、
「なんかさ、不公平だなって感じる。」
うん、私もそう思うよ。
最後にもう一度、SSERがケイタリングをされている
石巻商業高校の避難所を訪ねました。
まもなくSSERも他のNPO団体に引き継ぎ、撤収される予定だそうです。
この日は菅首相が被災地の視察でここへ来たのだとか。
米軍がグラウンドのヘドロをすごい速さで片付けていました。
この日は、深夜になることなく新潟に戻ってきました。
車の中から見る、犬の散歩をする人や、
自転車に乗る人、なんでもない風景に、
「普通に生活できることって、なんて幸せなんだろう。」
みんながそう思いました。
そして、それが毎日続くことがもう私たち3人にとっては
当たり前のことには思えなくなってしまいました。
「私も美味しいものは先に食べるようになるかも。」
とコタンさん。
こんな形で今ある幸せの儚さを感じるのはいやだけれど、
明日も、来週も、一年後も、十年後も
きれいな夕陽をみんなで見ることが出来ますように。
会社に帰ると、FAXが届いていました。
ブログにコメントをくださった「ビーバー隊長」さんからでした。
驚いたのは、送ることが可能なものリスト、という中に
雨合羽50枚、ブルーシート50枚が入っていたことです。
もちろんまだ誰にも今日のご報告はしていないのに・・・
また、同じくブログにコメントをくださった「ゆり」さんは
石巻で平日に動くことができるということで、
支援物資を必要なところにタイムリーに届ける難しさも
実際に感じていらっしゃる方でしたので
長観寺さんであったことを簡単にメールでご報告したら、
ゆりさんのお母さまのご実家が石巻のふとん店さんで、
そちらも浸水などの被害にあわれているにも関わらず、
何枚かお布団をご提供いただけるというお話を頂きました。
まったく偶然、検索でこのブログにたどり着いた
オンロードライダーの「ひなたの修」さんが、
ただ共感したというだけで募金をしてくださったり、
地震の影響で、ご自身が休職中だったり、失業中であるにも関わらず、
大切なお金を義援金としてをお送りくださったり。
電池を使わずに済むソーラーランタンを探してくださるありんこさん、
買い占めは絶対にするまいと、いろんなお店で少しずつ電池を集め、
うんうん言いながら家にたどり着いたありんこさん、
みなさんからのコメントやメールを読んでいると
別の意味で泣きそうになります。
被災地に行き、再び心が折れてしまいそうな衝撃を受けても
「自分が出来ることを、出来る範囲で、そしてみんなで!」と
一人一人、せっせせっせと大きな荷物を持って
全国からありんこが新潟へ、そして被災地へ向かって
ゾロゾロ行進している様子を想像することで
私自身、とても元気が湧いてきます。
それは少し大げさな言い方をすると、
「生きる希望」に近いものです。
帰り道、とれっくか~ちゃんが作ってくれたという
おにぎりをバスの中で食べました。
6つ入っていたおにぎりは、どれも見た目も味も違って
大きな海苔は食べる直前までパリパリであるようにと
おにぎりに巻かずに別になっていました。
とれっくか~ちゃんらしいなあと思いました。
きっと食べる私たちのことを考えながら
楽しませようと、そして自分も楽しみながら
食べる様子を想像して握ってくれたのが伝わってきます。
サンチさんとその仲間達から送られてきた物資に
このまま一人の方に渡せるようにと
スキンケアセットになったものが入っていました。
サイズごとの下着のセットもありました。
もちろんセットにしない方がいい場合もありますが、
こうしたセットを作ってくれたら、
ダンボールに入れたままの「もの」としてではなく、
それが一番必要とされる場、必要としている方に
手渡しできるのが「ありんこ支援隊」のよい所でもあります。
きっとこの方も、使う方のことを想像しながら
このセットを作ってくれたのだと思います。
SSERの山田さんが、いつぞやのつぶやきブログに
「ボランティアは想像力が大切」と書かれていましたが
押し付けでもなく、身勝手でもなく、思い違いもなく、
ミスマッチの無い、あたたかい想像力は、
それをやってあげる自分ではなく、
相手のことを思う優しさからのみ出るものなのでしょう。
全国から、たくさんの思いをありがとうございます。
私も一人の働きありとして、
ありんこの力を必要とされる方がいらっしゃる限り
皆さんの思いを現地に運びたいと思います。
投稿者:かまた posted at : 20:48 | コメント (6)
2011年04月05日
牡鹿半島の避難所へ
先週末は、tacさん達と同じように
地元で物資配達のボランティアをされている「たくみさん」とともに
激甚被災地である牡鹿半島の女川方面の避難所にご一緒させて頂きました。
また長くなりますが、そのご報告をさせて頂きます。
金曜日の夜、楽さんが娘さんと一緒に
スギヤマレーシングさんとライダーズランドYOYOさんにご協力頂いた
たくさんの物資を載せて東京から届けにきてくれました。
楽さん、そしてご協力頂いた皆さん、どうもありがとうございました。
【4月2日 土曜日】
土曜は朝から積み込みのための仕分け作業です。
皆さんから送って頂いたたくさんの支援物資。
バスに積んだ後にも分かりやすいように、
半透明のコンテナボックスに、仕分けをしながら入れていきます。
(こうすることで、残量も一目でわかりますし、
避難所に箱を降ろした時にも、何が入っているかわかりやすいはず。)
仕分けしたコンテナボックスを「それいけウトロ号」に積み込みます。
東北道は地震によってかなりの段差がありますので
荷崩れという二次災害が起きないように、タイダウンでしっかりと固定。
できるだけ早めに出発をとは思っていたのですが、
結局、前日も合わせて仕分けに5時間、積み込みに4時間。(泣)
(スタンドで支援用燃料を詰めるだけでもかなりの時間がかかります。)
お昼過ぎにようやくサロンドアトラスを出発しました。
全線が一般車両通行可となったので
これまでに比べて車の台数がかなり多くなっています。
今まではいなかった、警察によるスピード取締りも行われていました。
夕方5時過ぎ、仙台の街に到着。
市街地はもうほとんど地震の面影はなく、
バスの正面につけた「緊急支援物資運搬中」の横断幕が
何とも賑わう青葉の街に似つかわしくなく、
「いったいどこへ運ぶのですか!?」という感じ。^^;
トレックフィールドさんで、トレックさんが必要なものと
楽さんから預かった「心の避難所グッズ」、
そしてガソリンと灯油をいくつか降ろしました。
その足で、今度は1kmと離れていない、tacさんのお店、
ストレンジモーターサイクルさんへ移動します。
3週目にしてようやく少しtacさんに打ち解け始めたウトロン。(笑)
tacさんのところもトレックさん同様、運ぶ先はあるのに
支援物資をストックしておくスペースがない、という状況で、
本当はいろいろと降ろしたかったのですが、
必要最低限の物資(下着など)と燃料を降ろすのみ。
仙台市内は宅急便が届くようになったので
トレックさん、ストレンジさんに全国から支援物資が届くのですが、
先述の通りストックスペースがないことと、配る人が足りないことで
(地元に詳しい人が一緒でないと本当に届けたい所に届かないので)
現在、ボトルネック状態になっている、という問題が起き始めています。
幸い、弊社は新潟の片田舎にあり、店舗はもと大型量販店のテナントで
スペースだけは十分にあるので、
皆さんからお送り頂いた物資は山積みせずとも置いておけて
仕分け作業も駐車場に広げて行えるのですが、
これを仙台に運んできても、降ろすことができない状況です。
そこで、今回はこのままバスから物資を降ろさずに
tacさん、トレックさんのバイク仲間で、
地元に非常に詳しい「たくみさん」とともに、
「それいけウトロ号」で一緒に物資を運搬させて頂くことになりました。
とりあえず、たくみさんのいる石巻へ向かって、
今日は石巻の大型店舗の駐車場で車泊をすることに。
仙台と違って石巻へ向かうとなると、
飲食店が開いていない可能性もあるので、
高速に乗る前にコンビニでパンでも買っていこうと思ったら・・・
市街地から少し離れた国道沿いのコンビニには
パンもおにぎりもお菓子も、見事に何もありませんでした。(泣)
向かいで「すきや」が営業をしていたので、
暖かい牛丼でありがたく腹ごしらえをして石巻へ向かいました。
そういえば、2週間前の、被災直後の街の中でも
「吉野屋」が屋台で炊き出し&配給をしていたのを見ましたが、
この2つの牛丼チェーン店、人々に暖かい食事と希望を与えてくれますね。
すばらしい企業だと思います。(-人-)
石巻に着いたのは夜9時。
ためしにバスの中で、手元式のLEDランタンを点けてみました。
自分の周りを照らすには十分だと思います。
(灯りの周りに鏡を置くと、灯りが増えて
さらに周囲が明るくなるとどこかで読みました。)
明日に備えて、おやすみなさい。
【4月3日 日曜日】
私は運転席と助手席の間の補助席を出して、
その上にキャンプ用マットを敷いて寝ましたが、
@BOSSはバスの後方、物資を入れたコンテナの山と
燃料を入れたガソリン缶との間にコットを置いて
荷物番として(?)寝ました。
余震がこなくてよかったですね・・・( ̄∀ ̄;)汗
朝8時、たくみさんと今日のルートを打合せします。
今日はこれから、牡鹿半島にある5つの避難所へ行く予定だそうです。
たくみさんは地元仙台の方で、tacさんたちと同じように
公的な支援を受けていないと思われる小さな避難所や、
道が悪くて他の人が回って行かないような場所の避難所を見つけては
ボランティアで物資を届けています。
そういった避難所を見つける「カン」と「嗅覚」は天才的だそうで、
とれっくと~ちゃん曰く
「たくみ君にとっては、きのことりをするようなもの」なのだとか。
私たちは週末にしか来ていませんが、たくみさんは
自分の職場が再開されるまでの今の期間、
2日に一回は、こうして現地に行っているそうです。
昨日から物資を持って宮城入りしている「ちばてつ」さんも一緒に回ります。
(ねこバスでは回りませんでしたが。^^;)
石巻の街の中は、まるで除雪機が雪を左右にどかしたかのように
道の両側に瓦礫の山が積まれていて、川や沿岸部に近づくにつれて
被害の様子が酷くなっていきます。
北上川河口に浮かぶ中瀬にある不思議なドーム型の建物は、
石巻市出身である石ノ森章太郎さんの記念館「石ノ森章太郎萬画館」。
海は青空を映して、こんなに穏やかできれいなのに・・・。
今こんなことを言う時ではないのかもしれませんが
震災でこんなことになる前に、東北の海岸線へ
ツーリングに来なかったことが悔やまれます。
どんなにか美しかったことでしょう。
牡鹿半途へ入ると、一気に被害の度合いが高まります。
海岸線にあったはずの港や漁村はすべて押し流され、
まるで爆撃にあった後のようです。
自衛隊により急ピッチに道が通れるように瓦礫を空けられた後は、
こうして電気や水道の復旧工事車両が次々に入ってきて
ライフラインの復旧を急ぎます。
今朝のニュースで、被災地の約95%は電気と水道が復旧し、
あとの5%がなかなか作業車が入れず、
復旧までにまだまだかなりの時間がかかると報道されていましたが
牡鹿半島はその5%に当たる所です。
最初の避難所は比較的ご年配の方が多い「旅館めぐろ」さん。
この民宿に約30名の方が避難をしていらっしゃいます。
私たちが着くと、みなさんが外に出られて出迎えてくださいました。
物資を広げると、中から今必要なものを選ぶのですが
「この後行く避難所の方の分もあるでしょうから」と
必要なものだけ、それも必要最低限の数だけを取られます。
「いつもはここで自炊して、ここで食べるんですよ。」
ドラム缶に火をおこして煮炊きをされているのだそうです。
手前の丸太がイス代わりです。
Photo:とれっくと~ちゃん
ありんこ支援隊が発足して、まっ先に支援物資をお送り頂いた
浜松の「うなぎの鈴恭」さんの「うなぎの柔らか煮」をお渡ししました。
鈴恭さんは「被災地の方にうなぎでも食べさせてあげられたら・・・」と
ずっとご夫婦で思っていらっしゃったそうですが、
ご家族でやっているお店で、大鍋ひとつで手作りをされ
パックの包装も全部手作業のため、あまり数が作れないので
支援物資として送ることは諦めていたところに
私のブログを読んでいてくださったご主人が
少数でも直接、被災地に物資を届ける「ありんこ支援隊」のことを知り、
今回こうして私どもに託してくださったものです。
そんな経緯をお話しながら、めぐろさんの方にお渡しすると
「まあ~、そうですか、本当にありがたいことです。
ほらみんな、うなぎだって!うなぎ!」と大変喜んでくださいました。
単に必要な物資を届けるだけでなく、物資にこめられた思いを手渡しするのも
「ありんこ支援隊」だと思っています。
「せっかく来て頂いたので中でコーヒーでもどうぞ。」
中にあがらせて頂くと、旅館の大広間でラジオをつけて、
70~80代くらいの皆さんがストーブの周りで過ごしていらっしゃいました。
「まあ、パンでも食べて。」
いや、とんでもない!とお断りしたのですが、余ったものだからと言われるので
朝ご飯を食べていなかった私たちは、ありがたく山崎パンを頂きました。
「毎日必ずパンだけは届くの。でも年寄りには食べきれなくてね~。」
コーヒーを飲みながらいろんなお話を聞きました。
「警報なんて鳴らないですよ。ここは地震が来たら津波、って決まってますから。
地震の後、このすぐ前の山に登ったら、
右からも左からも津波が来て、いや~、怖かった、怖かった。
目の前で家も何もかも、ぜ~んぶ流されていくんだもの。
見ている中で、登った屋根ごと流されていた二人だけ助かったね。」
「うちのばーちゃんもね、普段は車いすだったけど
歩こうと思えば歩けたんだから放っておけば自分で避難できたと思うのよ。
でも息子(ご主人?)が車に乗せて避難しようとしたから
結局車ごと流されちゃってねえ。」
そんな話を、明るく普通に話されます。
あまりにもこうした話が、当たり前になってしまうほど多いのでしょう。
たくみさんが
「今、被災者に限り1泊3食で2000円というような温泉旅行がありますよね」
というような話をしたら
「いいわねえ、行きたいねえ、でもその2000円がないときたもんだ。
通帳もカードも全部流されちゃったからねえ。あははは。」
あまりにも明るく言うので、思わずつられて笑ってしまいました。
内容は決して笑い話ではないのですが。
ストーブのまわりでこうしてお茶を飲んで話をしていると
まるでお正月に田舎で集まった時のようです。
違うのは、皆さん帰る家がなかったり、
家族のだれか(或いはすべて)を津波で亡くされていること。
「いつかありんこ支援隊でここの皆さんを、
さっき言ってた温泉旅行にご招待したいなあ。それいけウトロ号で送迎して。」
次の避難所へ向かうバスの中で、ぽつりと@BOSSがそう言いました。
津波の破壊力を物語る壊れた家。
次は60人ほどの方達が避難されている「牡鹿モータース」へ。
ここの社長さんがリーダーとなって、
全員が「炊事係」「洗濯係」「掃除係」「調達係」など
仕事の担当を決めてから、避難所の中がうまくいくようになった、と
たくみさんが社長さんからお聞きしたそうですが、
60人といえばもうひとつのコミュニティ。
いつ終わるとも知れない集団生活を諍いなくまとめていくには
リーダーシップと公平な役割分担が必要なのでしょう。
3箇所目は病院がそのまま避難所となっているところです。
入院患者さんだけでなく、勤務中に家を流されて
帰る家がなくなった看護師さんやドクターも大勢いらっしゃいます。
またここはたくみさんが前回来るまで、
被災した日から20リッターのガソリンがたった一度だけ届いただけで
水やご飯は届いても、それ以降燃料がまったく届かなかったそうです。
「ガソリンと灯油も頂けるのですか!助かります!」
責任者らしい男性がそう言われました。
建物としてはきれいに残っていますが、
他と同様、ライフラインはすべて断たれていて
水の出ないトイレにはこんな貼り紙が。
(大きい方をする場合は、新聞紙に包んで
専用のバケツに入れるようにという指示もあります。)
ここで物資を広げたら、病院の中から一人、また一人、
「見ていいですか?」と遠慮がちに出てこられました。
「子どもと主人のパンツ、もらっていいですか?」
もちろんですよ。
「ほら、子ども用の肌着!」
「うわ~、うれしい、タートルネックだよ、ほら!」
Flat-Aさんが提供してくださった、冬物のニットやカットソーを
買い物を楽しむように選ばれていました。
楽さんが用意してくれた10枚1セットの派手派手柄ショーツも
笑いながら広げては、MだLだと選んでいらっしゃいました。
女性としては、物が届くことだけでなく、選ぶこと自体が楽しいもので、
こうした時間を届けられたことも、「アリ」だからできたことかもと思います。
電気が来ていないのにこんな大きな施設、
夜は暖房なんかないですよね?
「ないですよ~、コート来てこのまま寝てます。でも寒い。
だからタイツとか、スパッツとか、暖かい下着はホントに嬉しいです。」
下着はここでほぼなくなりました。
皆さんに聞いた「出来たらほしい物メモ」。
ほぼ空になったコンテナボックスを片づけていたら
一人の看護師さんが私におずおずと、
「あの・・・・また来て頂けるんですか?」
これを聞いて、またまた涙が出そうになりました。
そしてこの言葉を、全国にいるありんこさんたちに届けなくちゃ、と思いました。
プカプカと、海に浮かんで海岸に打ち寄せては戻る冷凍コンテナ車。
これから牡鹿半島の中でも最も被害が大きいと
誰もが口を揃える女川へ向かいます。
途中、自衛隊の作業者が通るために
車を止めて待つように指示がありました。
今こうして私たちが牡鹿半島の海岸線を車で通れるのは
自衛隊が瓦礫撤去の作業をした後だからで
訓練された彼らの機動力は本当にすごいとあちこちで思いました。
この日、女川の海はとても静かでした。
ENEOSのガソリンスタンドの建物と火葬場だけを残し、
すべての建物が崩れ、流されていました。
tacさんがご自分のブログで女川について
「沿岸の街という街、集落という集落に一つ一つ
小型の核爆弾を落としたような感じ」と書いていましたが
まさにその通りの光景が目の前に広がっています。
何があったのか、どんな街だったのか、もはや想像することすらできません。
4軒目は女川原子力発電所内を通らなくてはなりません。
通行許可証をもらうために、身分証明書を見せて手続きを受けます。
携帯電話のスイッチも切るように言われ、切ったかどうかのチェックも。
たくみさん、よくこんな道ぞいの避難所を見つけましたね・・・
原発を通過して、4軒目の避難所は前網地区。
個人のお宅に20人ほどが非難されていました。
もうあまり物資が残っていなかったのですが、
小学生くらいの子どもがおかずを選ぶ時に
「カレーもあるよ」と手渡そうとしたら
「う~ん、カレーよりふりかけがいいや!」
そういえば、これまでのどこの避難所も、
レトルトカレーには誰一人手を出していません。
毎日カレーばかり食べていることが多いのでしょう。
ここで手元式ランタンをお見せしたら
「おお、こりゃあいい!今まではろうそくで暮らしていましたが
そのろうそくもちょうど切れかかっていたんです。」
よかった。少しの灯りですが、どうぞお使いください。
自衛隊はおにぎりやパン、水と言った
「命をつなぐため」の物資を運んでくれますが
たぶん届けなくても命に関わら別状ない物資は運んでこないので
ありんこ支援隊としては、自衛隊の運ぶ物資を補う意味で
「心をつなぐため」の生活用品を届けられたらと思います。
最後の避難所は今回の中で一番人数が多い寄磯小学校です。
約100~120名の方がここで暮らしていらっしゃいます。
ここは漁師さんと思われる、元気のいいお父さん達が多い避難所でした。
ガソリンや灯油は時々自衛隊が運んで来てくれますが、
何時来るかは分からないし、かなり少なくなっていたそうで
大変に喜んで頂きました。
コンテナのもう残り少なくなってしまった物資をすべてお渡ししながら
すみません、下着も靴下もたくさん持ってきたつもりだったのに
お父さん達の分が一枚も無くなってしまいました、と言ったら
「いいんだ、ここへ来てくれただけで。」
ここでも手元式ランタンをお見せしたら
「自宅で避難している家は発電機もないから、これ渡すといいな!
ここも夜トイレに持っていけるように、入口の所さ置いておけばいいべ。」
「これがあれば夜道もムードが出るな!あっははは!」
明るい方達です・・・( ̄∀ ̄;)汗
以前tacさんが、避難所の方達にほしい物を聞いても
遠慮してほとんど言わない、と言っていましたが
思うに、私たちからしたら不自由と思われることも
辛抱強い東北の方たちは、この状況を仕方ない事と受け入れて、
寒さも暗さも、不自由さとして感じていないのかもしれません。
でも最後の方でもう一度「あったらいいなと思うもの」を聞いたら
「寒いから、トックリの服みたいのがあるといいな。」
「お、トックリはいいな。」
「あと、普段履きのズックみたいのとか。」
「でも無ぐてもいいんだよ。出来たらでいいの、出来たら。」
お父さんたち、必ずまた来ますね。
どうか風邪などひかずにお元気で!
牡鹿半島から女川港を通過しての帰り道、瓦礫の山を通りながら、
だんだんこういう風景に慣れていく自分を感じました。
もう、木の枝に車が引っかかっていようと、
家の屋根に船がひっくり返っていようと驚くことはありません。
それがいいことなのか、悪いことなのかはわかりませんが
そうでないと人間は生きていけないように出来てるのかもしれません。
町中のガードレールの下に、魚の死骸がありました。
津波の直前はどこを泳いでいたのでしょうか。
石巻の市役所脇で、たくみさん、ちばてつさんと分かれました。
今日は本当にありがとうございました。お疲れさまでした。
石巻の町中で、外国人ボランティアによる炊き出しが行われていました。
もう一箇所だけよる所があります。
石巻商業高校でケイタリングをされているSSERのテントを訪ねました。
石巻の町中がものすごく渋滞していたために
ちょうどお忙しいであろう調理時間に訪ねることになってしまいました。
この日は3人のスタッフが女川に250食分の食事を作るために行かれたので
ここでは2人だけで120食の食事を作っていらっしゃるのだそうです。
いくら慣れていらっしゃるとは言え、2人で120食って大変ではないですか?
「ご飯は他から届くので、作るのは汁物だけですから大丈夫です。
でもそうでないと温かいものが一つもないんでね。」
ほんとうにお疲れさまです。
前回ヘドロに覆われてドロドロだったグラウンドも乾いていたので
ずっとバスの中にいたウトロンを少し走らせました。
すると何か大きな物を口に加えて来ました。
さ、さかな!Σ( ̄⊥ ̄lll)
SSERのテントにもガソリンや軽油を届けて帰る予定だったのですが、
300リッター用意したガソリンも、5軒の避難所に分けてほとんど無くなってしまい
結局、軽油しかお渡しすることができませんでした。
※追記
SSERの石巻スタッフの方にお渡しした鈴恭さんのうなぎの佃煮、
5日のつぶやきブログに女川の避難所にて炊き込みご飯になったと書いてありました。^^
午後6時、帰途につきましたが、週末はボランティアが全国から集まるためか
高速に乗るまでの道のりは長い長い渋滞ができていました。
暗くなった頃にようやく高速へ。
高速道路の左右に、イルミネーションがまったくないエリアが出てきます。
新潟なら山の中だったりして、こうした風景は珍しくないのですが
「停電でしょうかね?」
「いや、ここは名取町だよ。」
一瞬ライトに照らされて見える立ち入り禁止の看板。
そうか、ここは私たちが行った名取地区なんですね。
心で手を合わせながら通り過ぎました。
今回はじめて実際に避難所へ直接物資を運ばせて頂きましたが、
避難所によって必要とされる物資がまったく違うことを知りました。
また「命をつなぐ食料」は自衛隊から運ばれるので
ありんこ支援隊としては、その「生きていくための必要最低限」の
もう一段階上の、笑顔の出る物資をお届けできたらと思いました。
上にも書いたように、トレックさん、tacさんのお店は
現在キャパオーバーギリギリです。
また、現在毎日のように物資を運ばれているたくみさんも
仕事に復帰したらそういうわけにはいかなくなります。
そこで私たちは皆さまからの支援物資を貯めておく中継地点でもあり、
また必要に応じては「動く倉庫」として
今回のように、顔の繋がった避難所に物資を届けていきたいとも思っています。
毎日の協力者リストの更新や物資内容の確認と入力、
頂いたメールやコメントへの返信、ブログの更新、
そして時々仕事などをしていると
あっという間に一日が終わっていきます。
「体をこわさないように」「無理をしないように」
「働かせるのはヒゲアリだけにして休むように」等々
いろいろご心配を頂いていますが、
疲れて休みたい時は本当に休みますので
どうぞご心配なさらないでください。
「女川原発で放射能をあびて、
エチゴヒゲアリは仮面ライダーに変身したりして。」
@BOSSが笑えないジョークを言っていますが、
今のところ背中に羽根などは生えていないと思われます。(笑)
元気な理由は、被災地の方の笑顔と
皆さんから頂くコメントやメールのお陰でもあります。
頂くメールは、許されるならば全部公開をしたいほど
どれも心がほっこりと暖かくなり、時には涙が出ることも。
本当にありがとうございます。
今日はホームページのリストを更新できませんでした。
メールのお返事もあまり書けませんでした。
でもこのブログが、皆さまへのメールです。
では、明日もがんばりましょう!
追伸
長い長いブログを書いて、若干お疲れモード気味でしたが、
これを見てすっかり癒されました。゚。( ̄▽ ̄)ポワーン
長い長いブログを読んで疲れたあなたもどうぞ癒されてください。
投稿者:かまた posted at : 21:10 | コメント (15)
2011年04月02日
届けよう、光を!
石巻から帰った翌日、オーランドの太田パパから長い電話がありました。
「@BOSSさんたちも被災地に行ったって聞いたから電話してみたんだよ。」
そう話を切り出した太田パパは、時を同じくして
気仙沼の唐桑地方にある9箇所の老人ホームや養護施設を中心に
物資配達のボランティアで3日間滞在されていたのだそうです。
その地域は半島で街から離れていて、未だ電気が来ないばかりか
大きな幹線沿いの街から順に電気を引いていった場合、一番最後になる予定だそうで、
今の予定では、もしかしたら電気が戻るのは4ヶ月先になるかもしれないのだとか。
発電機がある避難所でも、夜8時になると電気が落とされ、
発電機のないところは夕暮れとともに暗闇となっていきます。
皆さんは「真っ暗闇」を経験されたことがあるでしょうか。
私は2度目の北4で、日が落ちた雨の森の中、
CRM250のエンジンが止まったときにすべてのライトが消え、
ヘッドライトを出そうとする自分の手も見えず、
明かりを取り戻そうと必死でバイクをキックしたことがありますが、
あの暗闇が毎晩、しかも数ヶ月にわたって続くなんて想像もできません。
そんな、光がまったくない状況でも余震は容赦なくやって来るのですが、
騒いだりパニックになったりすることもなく、皆息を殺して、
余震が収まるのを、ただじっと待っているのだそうです。
太田パパですら、「怖い」と思ったというその状況が、毎晩続いているのです。
そう言えばSSERの山田さんも、暗闇の中で余震をやり過ごす恐怖について
つぶやきブログで書いていらっしゃいました。
計画停電で暗闇での数時間を余儀なくされている方も大勢いらっしゃると思いますが、
そのエリアでない方は、ためしに夜になったら家中の電気という電気を消して、
トイレに行ってみてください。目を開いているのに見えない状況は本当に怖いです。
そこに余震など来たら・・・
ということで、次なるありんこプロジェクトです。
まだまだ電気復旧の見通しが遠い被災地の夜に
光(灯り)を届けたいと思います。
題して、「届けよう、光を!」
ただし、安全性を考慮して、火を使わないように
電池式ランタンを被災地に届けたいと思います。
@BOSSはさっそく、小さな電池式ランタンを調達してきました。
会社の電気をすべて消した中でも、これだけ周りの明るさを取り戻せます。
聞くと、@BOSSがこれを調達してきた「ヒマラヤ」さんでは
計画停電を見越して、見込み仕入れをしていたのに
東北電力の計画停電はすべて見送られることになったためなのか、
季節はずれのアウトドアコーナーにこのランタンだけが大量に並んでいたのだそうです。
それでも複数個を一度にかごにいれることをためらった@BOSSが
店長さんに用途をお話したら、お願いもしていないのに
「そういうご事情であれば」と割引という形でご協賛をしてくださったそうです。
ヒマラヤ長岡店さん、本当にありがとうございます。
(この話を読んだからと言って、お店で値引きなどお願いしないでくださいね。^^;)
もちろん、あえてわざわざ購入して頂かなくても構いません。
ご自宅にあって譲って頂けるような電池式ランタンがありましたら
ありんこ支援隊までお送りください。
参考までに、これは単3電池を3本使用した「ランタン&トーチ」で
写真のように卓上に置けばランタンに、
レンズ部分をスライドさせることによって懐中電灯にもなる優れものです。
こちらの参考例は、ロゴスの「マイライトスリム」。
単3電池を4本使用して、2段階の明るさを調整できます。
どちらにも共通しているのは、使用方法がシンプルなこと。
基本的にお渡しする相手は、キャンプなどしたことのないご年配の方です。
高機能は全くいりませんので、できるだけスイッチ一つで点く
卓上型の(←ここが重要!)LED(←ここも重要!)の
小型ランタンをお願いできればと思います。
(LEDでないと、電池の減りがものすごく速いので、
ランタンは安くても、電池を数倍使うとなると、
結局あまり安くないことに・・・)
ご存知のとおり、巷では単1、単2電池が手に入りにくくなっています。
できるだけ単3電池使用のランタンをお願いいたします。
基本的には、このように小さな「手元用ランタン」を集めようと思っていますが、
避難所の共用スペースや、自宅避難の方の茶の間用などに
大き目のランタンをお送り頂けるようであれば、もちろんそれでも構いません。
幸いにして弊社の地元に、単2と単3電池を単1として使えるアダプターを
製造している会社があったので、@BOSSはいくつかお願いをしていますが、
これも数に限りがありますので、単1、単2電池を使用するランタンをお送り頂ける場合は、
できるだけ最低1セットは、それに合った電池をおつけ頂けると助かります。
計画停電の実施などで、ランタンも電池も手に入りにくくなっていますので、
お店で複数個ご購入されるような場合は、
店長さんなどにご事情を説明して、ご迷惑のかからないようにお願いします。
くれぐれも、買い占めにあたる行為はご遠慮ください。
私たちがお届けできるのは小さな小さな灯りではありますが、
きっと被災地の方の心をポッと灯してくれることと信じています。
投稿者:かまた posted at : 19:45 | コメント (8)
2011年04月01日
しどきへ
この時期に原発に近い方へ向かうなんてバカなことを・・・
と思われる方もいるかもしれない、ということを覚悟の上で
昨日しどきへ行ってきました。
まぶしい青空の下、のどかな田園風景が広がる中、
無味無臭の見えない放射能というものは確かに怖いなあと思いながら
何ヶ月ぶりに降りたいわき三和インターチェンジ。
一昨日、「@@3410さん」から
モトスポーツランドしどきについてのコメントがありました。
コメントの内容は下記の通りです。
この度の震災でモトスポーツランドしどきの来場者が激減し、
現在殆ど皆無の状態とのこと・・。
原発の状況を考えますと無理からぬこととも思いますが、
あと一月様子を見て来場者が無いようなら営業をやめるかもしれないとのこと。
新しいブルを導入した矢先でのこの震災で、持ち堪えるのは難しいのだそうです。
被災地への支援活動が難しい方にはしどきへの支援活動として
走りに行くように呼びかけてくださいませんか?
しどきは福島県のいわき市にあり、
確かに現状は来場者が激減してもおかしくはありません。
屋内待機圏外ではあるのですが、ここで私がブログで
「皆さん、ぜひ走りに行ってください!」と書いたとしても
何一つ問題の解決方法にはならないし、
それであればしどきを愛するメンバーで
「しどき募金」をする方がまだいいと思います。
しかし何かを始めるにも、
この情報がどこまで本当なのかが判断できなかったので
日本でしどきを最も愛する会員と自負するチームアトラスとしては
まず一度、しどきへ行って話を聞いてみようと思いました。
※@@3410さんのことを疑って、ということではないのでどうか気にされませんように。
ただ、「ありんこ支援隊」のページにも書かせて頂いている通り
本人、または本人から直接聞いた人からの情報だけを信じる、ということが
特にこうした非常事態下では気をつけなくてはならないことであり、
頂いたコメントからは、誰がいつ誰にそう言ったのかがわからなかったので、
やはりどう打ち出しをするにしても、確認すべきだと思ったからです。
なんていい天気!本当だったらここに
たくさんのエンジン音が轟いているはずなのに・・・
私たちはしどきの社長さんに、単刀直入にお聞きしました。
が、愛想のないことで有名な(失礼!)社長さんに
話を切り出す時の難しさったら・・・・
案の定、「はあぁ!?」という第一声。
(怒られるかと思いました・・・泣)
「やめるなんて誰もひと言も言っていないのに!
だから私はインターネットは大嫌いなんですよ!
確かに震災後に走りに来る人はいなくなりましたが
こういう状況だから、私たちとしても覚悟はしています。
でも、私らはここで30年間やってきているんですよ!
地震でコースや設備の半分が壊れてしまったということででもあれば
営業停止を考えなくてはならないでしょうけれど
コースは何の被害も受けていないんですから。
かと言って、今のこのいろんな規制が解除されない限り、
ただ走りに来てくれと言ったって難しいでしょうね。
だから、4月いっぱいくらいはもう覚悟を決めて
コースのレイアウトを変えたりして過ごすことにしています。
もちろん走りにきていただければ、万全の体制でお迎えできますよ。
コースはバンバンで、ものすごくいいコンディションです。
それに、もしこういう状況が続いて困窮して厳しいと判断したら
私どもの方から皆さんのような会員さんに真っ先に相談をするし、
年会費の前倒し等のお願いをするかもしれない。
でも、それを何も言っていないのにそんな噂が立つなんて
それこそ風評被害ですよ。」
それをお聞きして安心しました。
その後、少しだけコースを見学させていただきました。
あ!グランプリコース手前のジャンプが、フープス変わってる!
ひゃ~~~、走りた~~~~い!
ミニコースも奥の方が少し変わっていました。
今日なんか天気もいいし、グリップもいいし、
本当にベストコンディションなのに走っているのはヒゲアリとウトロンだけ。
ああ、なんという贅沢な・・・・・・(TдT)
確かに今は政府の発表も曖昧な部分が多すぎますし、
原発も明るい見通しには程遠い状況なので、
いわき市に近づくことそれ自体が不安という気持ちもあると思いますが
まずは現状としどきの社長のお話をそのままお伝えいたします。
いつか、ありんこ支援隊のオフラインミーティングをすることがあったら
会場はしどきだ!と勝手に心に決めさせて頂きました。
さて。
もう一箇所、気になっていたところがあるので行ってみたいと思います。
この2年間、数え切れないほど通ったいわきの街の中は
沿線のコンビニとガソリンスタンドが軒並み閉まっていた以外は
いたって以前のままのように見えます。
(少し街をはずれたしどきの方などは、GSもコンビにも営業していました。)
あ!営業してる!(泊まりはやっていないようですが。)
毎週お世話になった「いわき健康センター」は
一部修復工事を行っているようですが
駐車場はほぼ満車状態で、賑わっているようでした。
私たちはそれだけを確認してそのまま高速に乗りましたが
スタッフの皆さんも無事に働いていらっしゃるでしょうか。
ご挨拶だけでも顔を出せばよかったかな。
でも、考えてみれば、@@3410さんのコメントによって
ただ心配だけしていた私たちもこうして確認に来ることが出来たので
@@3410さんには感謝をしなければなりません。
また、今後もしどきを応援しながら、必要であれば(ありんことは別で)
「しどき走ったつもり募金」などもしていくことがあるかもしれません。
最後に一つだけ、このブログを読んでくださる皆さんに
「情報」についてもう一度お願いです。
情報は聞いて伝える前に、そのソースを確認してください。
確認の方法は、ネット上に氾濫するコピペされた記事や
ただ自分の不安や心配を書いた一意見を読むことではなく、
事実を本人に確認するか、または
本人に直接確認をした人からの情報を聞くことが一番だと思います。
そうすることで、よりよい対策も生まれてくると思います。
投稿者:かまた posted at : 23:55 | コメント (9)